2017年12月27日水曜日

伝統の巨人戦

Windows updateがあるたびに少しずつアプリが不具合を来すのがおもしろい。

どんなアプリも「末永く」使ってもらうことを想定していただろうにな。

よく言われることだが、写真をきちんと紙に焼いてアルバムに入れておけば何年も取り出して眺められたのに、うっかりPCメディアに入れて置いたら時代とともに見られなくなってしまった(例:MO)、なんての、人とメディアの戦いの縮図みたいだなあ、と思う。

一方的にPCメディアが悪い、みたいに書くのもほんとうはへんだ。

紙の写真にしてしまっておいたはずが、引っ越しのどさくさにまぎれてアルバムごと紛失してしまった、大掃除の末にどこかに消えてなくなってしまった、なんて人だっていっぱいいるだろう。

人は記憶を手に入れたことで、忘却と戦わなければいけなくなってしまった。

代替保存先が紙だろうがPCメディアだろうが、忘却は容赦なく襲いかかる、ただそれだけの話、のようにも思う。



ワンピースの中で「人が死ぬのは忘れられたときだ」というセリフが出てきたとき、世界各地で何度も何度も語られた言葉であったにも関わらず、おそらく数百万オーダーの人々が「名言だ」と言った。ぼくも名言だと思った。

けれど人類は歴史の中で何度も「忘却こそが死である」というブンガクを残してきていたはずだ。

これだってひとつの忘却の形なのである。人間が寄り集まって社会を作り、社会がこねくりまわして文化を創り、歴史を織りなしていっても、社会がアップデートするたびに、歴史が刷新するたびに、かつて残した文学の記憶が失われていく。何度でも繰り返される。いつも人は、過去に言われていたであろうことに新鮮な感動をする。




忘却があるからこそ文芸は生き延びていける、と極論することもできる。

人類の英知が、巨人の肩の上に完全に乗っかっていたら、後世の人ほど新鮮なわくわくを感じることはできなくなってしまう、かもしれない。

巨人が常に膝から崩れ落ちているからこそ、人は高いところに登った喜びをいつも感じることができるのかもしれない。





その点、科学は不便である。

巨人の肩の上に立つということは、遠視でなければ生きていけなくなるということである。

科学に忘却は許されない。けれど、ぼくらは、科学を語るときにいつも、人類の総和としての知を忘れそうになるのだ。