2018年8月3日金曜日

病理の話(228) 不死はいけるが不老はいけない

なぜ生命は不老不死じゃないんでしょうか。

みたいな質問を夏休み子ども電話相談室に投げかける。

さまざまな答え方があると思うが、ぼくも自分で考えてみることにする。

たとえば、そうだな。



まず、不死というのは実は可能である。

実際、体の中には、たまに「死なない細胞」が出現する。それを人はがん細胞と呼ぶのだが、まあがんの何が悪いかはおいておいて、「死なない」ことだけを目標にすれば、メカニズム的に達成することは可能だ。

そう、不老不死のうち、不死は狙える。問題は不老のほうにある。このことはあまり知られていないように思う。




もし我々が永遠に生き続けたとすると、それだけキズが増えていく。このキズこそが「老い」の根本にある。老化とはキズが蓄積することだ。

老いないことを人は望む。老いないためには、キズをすべて避け続けるか、無数のキズをすべてカンペキに修復するシステムが必要となる。未来永劫、キズを避け続けて生きるというのは孫悟空でも不可能だ。だからキモは補修システムにある。人体には、そういう補修システムが無数に存在する。

けれども、残念ながら、というか当たり前のように、補修システム自体にもキズがつく。





キズというのは、表面的な損傷だけを意味することばではない。

細胞の活動を司っている遺伝子というプログラム、そこから発されるメッセージ。作られるタンパク質。タンパク質どうしの相互関係。ダイナミズム。

これらすべてに、等しくキズがつく可能性がある。

キズがつくことで、次第に、細胞は元のままの姿を保てなくなる。

これが老化だ。




たとえば、細胞というものは、ある特殊な形のタンパク質をマジックハンドのように使って、外から大事な栄養を取り込もうとする。

いつしかそのマジックハンドが壊れて、なくなって、だからそれを作り直して、とやっていく。キズというのは避けられない。けれども補修システムがきちんとはたらいている。

ただ、ときおり……。

うっかり”マジックハンド”を作るつもりが、”マリックハンド”を作ってしまうことがある。

マジックハンドとマリックハンドはたった1文字の違い。

しかし、かたや、手を延ばしてつかむもの。

もう一方は、ハンドパワーですといいながら何もつかまないもの。

大違いだ。別モノである。



このわずかなプログラムミス……あるいはプログラムの実行ミスによって、細胞は、だいじな栄養を外からとってくることができなくなる。

すると細胞の劣化はさらに進む。

仮に不死であっても。そう、がん細胞であっても。

キズの蓄積は永遠に続いていく……。





老いだけは避けようがない。先延ばしにはできる。しかし、確率的に、100%避けきるということはできない。

細胞は、もっといえば、生命は少しずつ本来の姿を保てなくなっていく。

不死であっても。不老にはなれない。

だったらどうする。どうやったら、局所のエントロピーを下げ続けながら利己的にこの世にあり続けることができるだろう。




エラーのない、まっさらな状態に「転生」するのがいい。

そんなことは可能だろうか?

自分の完全なコピーを残そうと思って、自分が今もっているキズまでコピーしてしまったら、転生先にも老いが蓄積していくではないか。

どうする。どうやったら、「新しい、まっさらな、キズのない命」に自分のメッセージを伝えることができるだろうか……。




多くの生命がたどりついた暫定的な答えが、「2名の遺伝子をまぜて、いいところをとって、新しくキズの少ない生命を生み出すこと」だった。

不老を達成できなかった生命は、不死を捨てる代わりに、「有性生殖による複製」を選んだのである。

そうすることで、自分と完全に同じではないが、かわりに、キズの非常に少ない生命を新たにこの世に残すことができるようになった。



我々は個々人では絶対に不老不死になれない。

しかし、世代を経ることで、また社会を形成することで、総体としての不死を獲得している。

不変ではあり得ないが普遍であろうとする。

そういう感じだよ、市原君はわかってくれたかな。

はい市原先生ありがとうございます。