阿部公彦「文学を <凝視する>」が激烈におもしろくて一気読みであった。
こんな論説みたいな本がおもしろく読めるようになる日が来るとはなあ、と思わなくもない。
でも、ぼくはそもそも中学高校のとき、国語の試験で読む文章のうち論説文が一番好きだったことを思い出した。
別にイキって言ってるわけではなくてそこにはきちんと事情がある。
論説文が好きというよりは試験で小説を読むのが嫌いだった。
国語の試験の最中に小説を読まされると、序文は省略してあるし、クライマックスまではたどりつかないし、勝手に波線や実線を引かれて色を付けられてしまっているし、ちょくちょく小問に答えなければいけないし、行きつ戻りつ、本来の流れを無視して読み込まされたりもして、とにかく、「試験のために一部分を切り取られてしまった作品」の悲しさばかりが目についた。
「一刻もはやく試験解答技術でこの場を乗り切ってすぐに内容を忘れてしまわないといけない」という強迫観念に襲われたりもした。
もしぼくが将来、この小説をあらためて読み直す日が来たら、モノクロの文章のうちこの部分だけがカラーで浮かび上がってくるようなブサイクな読書をしかねない。まったく迷惑な話だ。
ぼくは本当に、そうやって思っていた。
だから試験で読むなら論説文がいい。
しかしまあそういう「試験のための読書」が終わったあと、大学以降は、論説的なものを読む機会がなかったなあと思う。
文学部に進む人というのはこういうのを日常的に読んでいたのだろうか。
ぼくは実用書(つまりは医学書)とフィクションを読んでばかりだった。哲学書の類いにも弱い。まして文化や社会を語る論説なんて手に取ったこともなかった。
今はそれがおもしろく読める。ぼくはおじさんになったんだ。
……いや、違う。
ぼくは中高生のときから論説をかじり読みするのが好きだった。
おじさんかどうかは関係ない。
強いて言うならば、周りの人々がいう、
「それの何がおもしろいの?」
に、毅然と対応できるようになった点だけが、齢を重ねたぼくが手に入れたストロングポイントなのかもしれない。
「それの何がおもしろいの?」に答えるのは大人の仕事なのではないか。