モンゴルからやってきた病理医と刺身を食った。
彼は日本は5度目なのだという。
器用に箸を使い、わさびを楽しんでいた。ぼくは当初、彼に何を食わせたら満足するだろうかとだいぶ悩んでいたので、ちょっと拍子抜けしてしまった。
話題はいつしか、「ドクターズ・ドクター」ということばについての考察に移っていった。
ぼくと彼とは考え方が少しだけ違った。
若くしてハイ・ボリュームセンターの部長にかけあがった彼はとても優秀だ。
学生時代に、ウィーンを3か月ほど訪れ、そこで病理学のすばらしさに心を惹かれたのだという。欧州における病理医の崇高さを彼は強調しながら、彼は言った。
「日本では、病理解剖をする・しないというのは誰が決めますか?
臨床医が決めて、病理医に依頼をする。なるほど。
実は、ヨーロッパのある国では、病理解剖をするかしないかというのは、病理医が判断します。
臨床医が病理医に解剖を依頼する、というスタンスではないのです。
ありとあらゆる臨床情報を総合して最後に考えるのはあくまで病理医であり、病理解剖が必要なのかどうかを検討し、『解剖をすべし』という判断をくだすのも病理医です。
すなわち、病理医というのは、すべての臨床医の中で最後に砦として働く存在なのです。
多くの臨床医たちに一目置かれ、まさに『医者の医者』として頼られる存在です。
ドクターズ・ドクターということばがふさわしい。」
で、ぼくは、つたない英語でそれに反論した。
「病理医もまた臨床医に過ぎません。
ぼくは電子カルテをみて臨床画像を読んだり血液データをみたり、看護師さんが記録した日々の情報を確認したりしながら病理診断をします。
その意味では、たしかに、病理医として『最後の判断』をしている。
けれども、同時に、ぼくが得た病理の知識をそのまま臨床医と共有して、みんなで一緒に診断を考えることも多い。
たまには、ぼくが『最初の疑問点』を臨床医にぶつけることもあります。
『なんで細胞がこうなんだろう、臨床的にあの話は確認しましたか?』
『あるべきでない細胞がここに存在する、追加の検査が必要だと思います』
ぼくの疑問がそのまま臨床の大きな疑問となって、病理診断だけでは決められないようなさらにおおきな臨床診断につながっていく場合もある。
どちらが依頼する、どちらが最後に決める、と、型どおりのシステムで診断が進むことはむしろ少ないようにも思います。ワンオブドクターズにすぎない」
彼はしばらく考えて、言った。
「まあ患者のためのドクターであろうとすればそれが一番いいですもんね」
患者に直接会わないぼくらの仕事は、たしかに、クライアントとして医者を想定する。
医者のための医者、ということばは、確かに適切である。
けれども、「ドクターズ・ドクター」ということばの響きがあまり好きではない。
ペイシェンツ・ドクターでよいではないか、と思うのである。