2018年8月13日月曜日

病理の話(231) 病理解剖不要論

ぼくは病理解剖という手技に対して強いプライドがある。

病院の中にいるあらゆる職種のひとびとのうち、ぼくたち(病理医)ほど質の高い病理解剖をできる人間はいない……というか、そもそも、まともに解剖をできる臨床医というのは数人しかいない。

お作法もある。順序もある。学術もある。手技もそうだ。

だからぼくはこの「病理解剖」という、オリジナルスキルに対して誇りを持っている。



けれどぼくはだからこそ、病理解剖なんて今後すべてなくなってしまえばいいと思っている。






病理解剖をやらなければ見つからなかった所見がある。それはほんとうだ。

病理解剖のおかげで今の医学は進歩した。まったくその通りだ。

病理解剖ができないといろいろ支障を来す。完全に同意する。

これからの医療にも病理解剖は不可欠だ。それもまあそうだと思う。

それでも、ぼくは、病理解剖を学ぶ時間をかけて病理診断医が放射線医学を学び、画像診断学を極めにかかったほうが「より大きく役に立つ」のではないか、という思いを捨てきれない。





病理解剖というのは日本刀だ。

日本刀がなければ日本の文化は築けなかった。

日本刀のおかげで日本の戦争は成り立ってきた。

日本刀が扱えなければ白兵戦における有利がひとつ失われる。

これからの戦争にも日本刀は不可欠だ……。

いや、そんなことはないと思う。




確かに、今後、日本がまた戦争に巻き込まれるかもしれない。本土での白兵戦が行われるかもしれない。ごく限定的な状況で、重火器よりも日本刀を用いた近接戦闘のほうが役に立つかもしれない。日本刀を扱う技術を兵士が持ち合わせなかったために命を落とすことになるかもしれない……。

けれどもそれよりはるかに、日本刀を捨てて代わりの技術を手に入れた方が戦争は有利だろう。





詳細は絶対に書かないけれど、ぼくはこの数年においても、病理解剖をやらなければ真実までたどり着けなかった症例というのを経験している。それも複数だ。

ぼくを除いたすべての臨床医たちが、臨床画像や検査データ、生前の情報を持ち寄っても、死因の推定ができなかった症例において、ぼくの病理解剖によって「真実に一番肉薄していると思われる仮説」が導かれた。

ぼくが病理解剖をしていなかったら、たぶん、それらの症例においては、真実は推定しえなかった。

……ほら、病理解剖があってよかったじゃないか。

それはそのとおり。

全国の病理医も、似たような経験をもっているはずである。

だから「病理解剖絶対論」がいまでもこれだけ存在する。




けれども、ぼくが病理解剖の代わりに、画像診断に対する深い造詣を有したままに病理診断をしていたら、今まで「未解決」のままに残している症例のいくつかを「解明」することができたかもしれない。

「病理解剖があったから+10点だ。病理解剖がなければその10点がなかったんだぞ。」

という人があまりにいっぱいいるのだが、

「いや、病理解剖にあてた時間を別の専門性に振り分けていれば、別の分野で+12点くらい稼げたかもしれないじゃないか。」

とぼくは思ってしまうのである。

ぼくが病理解剖を習得するために、ぼくや施設、あるいは病理学会が投じた時間、資材、金銭は、決して少ないものではない。

それをもっと別の技術に降り注いでいたら、病理解剖で救えなかった人を救えた可能性がある。






ぼくは自分の病理解剖という技術にプライドがある。

そして、これから病理医になろうとする人たちには、ぼくを含めた先達の「プライド」をあまり傷つけないでほしいなあとすら思う。老害でもうしわけない。

その上でこっそり思っている。

若者たちは、病理解剖については、「先達たちを超えようとする必要はない」。

病理解剖に向けるはずの、向けなければいけないとされる学究心を、画像診断、統計学の勉強、さらにはプログラミングにふりわけてほしい。

これからの時代に即した、最新の「ヤマイの理」を求めていくならば、それ相応の最新武器を手にしてほしい。





ぼくらはいつまでも日本刀の美しさによりかかっていてはいけない。

卑下することはない。軽く扱わなくていい。だいじに展示しておけばよい。深い洞察力をもって、過去の歴史に思いを馳せるツールにすればいい。

博物館で知性を深める人もいるだろう。

日本刀は、これからの人たちには、見て愛でてもらえばよいのだ。振り回す時代ではないとぼくは思う。





たぶん今日の記事はすごい怒られる。

けれどぼくはその怒る人よりも、少なくとも、太刀さばきはうまいのだ。……剣道部だし……。