解像度が上がれば上がるほど真実に近づける、というのは、たぶん正しい。
ただ、
解像度が上がれば上がるほど役に立つ、とは限らない。
1990年代初頭くらいのCTと、それから30年弱が経過した今のCTでは、ほんとうに、まるでモノの見え方が違う。超音波検査なども同様だ。機械が進歩しただけ、画像は実際の臓器のありようを正しく反映する。
肺野(肺の中身)とか、肝実質(肝臓の中身)とか、虫垂炎(モウチョウ)とか、膵炎とか、何を比べても、今のほうが圧倒的によく見える。診断の能力は右肩上がりだ。絶対に今のほうが鋭い診断ができる。
そう、CTや超音波は、「よく見えれば見えるほど、診断能が上がる(役に立つ)」。
けれどこれらは、あくまで「マクロ」レベルでの話だ。
実は「ミクロ」というのは、よく見れば見るほど有用であるという類いのものではない。
胃や大腸にがんができた際に、粘膜の部分だけをこそげとってくるような治療法がある。
ショートケーキの上にごみがついたとき、ケーキごと捨ててしまうのではなく、ごみのついたクリームの部分だけをスプーンかなにかですくってしまえば残りは食べられるじゃん、みたいなイメージ。
このような「こそげとり治療」で病変をとってきたとき、それを何気なく目で見て、
「あーがんがとれたなぁー。一件落着。」と片付けてしまってはならない。
必ず顕微鏡でミクロ観察をする。
肉眼ではわからない変化を顕微鏡で見つけ出すことで、将来そのがんが「こそげとった部分より広く転移して再発する」可能性をある程度予測することができるからだ。
例え話をする。アリの巣を上から見ても、穴の空いている部分しか観察できない。だから小学校でアリの巣を観察する授業をやるときには、水槽に土を詰めて水槽の中でアリの巣を作らせ、「横から断面をみる」という観察法をとる。
がんを見るときも、あれと似たようなことをする。
平べったい粘膜検体をただ真上から見るのではなく、「横から断面をみる」。
そうすることで、「どれだけ深くしみ込んでいるか」がよくわかる。
まず、こそげとってきた粘膜を、短冊切りの容量で、2 mmの幅に細かく切る。
そして、2 mmの短冊のすべてについて、割面(切り口の面)を顕微鏡標本にして観察する。
たかだか直径1.5 cm程度の「粘膜こそげとり検体」であっても、短冊は7枚くらいになる。
これをじっくり顕微鏡でみることで、
「数十ミクロンくらいのリンパ管の中に、がん細胞が侵入して、これから転移しようとしているところ」
なども観察可能となる。
より細かく「真実」があきらかになるわけだ……。
そしてここからが重要だ。
実は、ミクロの所見というのは文字通り「些細すぎる」。
目で見てはっきりわかるほどの変化と比べ、ミクロの変化は、「ある所見Aがあると、絶対にがんは転移する」とは言い切れない。
せいぜい、「ある所見Aがあると、10%の確率で、がんがリンパ節に転移する」くらいのことしかいえない。
変化が小さいあまり、確率でしかその有用性を検証することができない。
極論するならば、顕微鏡であまりに細かく観察して見いだした「真実」は、人間の一生からするとほとんど意味がない、ということが十分にあり得るのだ。
確率で診断を行う局面では、「真実」と「実用」とは必ずしも一対一対応をしない。
(難しい内容なので太字にしておきます)
2 mm幅という細かい単位で病変をすべて観察して、そこに「リンパ管侵襲」という像が1カ所見つかったとすると、ある臓器においては、がんがすでにリンパ節に転移している確率が10%だと予測できる、というデータがある。
「リンパ管侵襲」という些細な真実は、「転移確率10%」という統計データと結びつけることで、はじめて役立てられる。
ここで、技術が進んで、短冊をもっと細かく観察できるようになったとしよう。
検体を2 mmではなく、1 mmの幅ですべて切る。
すると、観察できる面の数がだいたい2倍に増える。
2倍の量を観察して、そこにリンパ管侵襲像が1カ所みつかったき、がんがすでにリンパ節転移を起こしている可能性は……?
実は、この確率を求めることが極めて難しい。少なくとも5%ではない。
観察の手法を変えて得られた真実を統計と結びつけようと思ったら、統計学的検索はすべていちからやり直さなければいけない。
今まで積み重ねてきた統計学をいったん捨て、「1 mm幅で短冊を作って検討した結果」を新たに何百例、何千例と持ち寄り、新しく統計解析をする。
このとき、「1 mmで観察したほうがよりリンパ節転移を高確率に予測できる」ならば、ミクロの観察もマクロと同様に、解像度がよければよいほど診断能が高いということができるのだが……。
実際には、どうも、違うらしい。
1 mmという細かさで些細な所見を集めすぎてしまうと、「些細すぎて人生においてはほとんど意味をもたないような所見」を拾ってしまい、統計学的なデータの切れ味がむしろ落ちてしまうというのだ。
難解な話だがあえて例え話にしよう。
渋谷の雑踏で、むき身の包丁をもって歩いている人を見つけたら高確率でやばいやつだ。
そいつは近々なにか犯罪を起こすかもしれない。
誰かがこのことに気づいたとする。街角にカメラをしかけてそういうアヤシイ奴を発見しようと計画する。
このとき、渋谷の街角だけではなく、全国津々浦々にことごとくカメラを配置したら犯罪予測能はあがるだろうか?
きっと、そう簡単ではない。
たとえば漁協の入り口前を包丁をもってうろついているおじさんはきっとこれから市場で魚をさばくだろう。
イオンの包丁売り場で実演販売をしているだけの人も見つかってしまうかもしれない。
「真実を見つければ見つけるほど人間の役に立つデータが出てくる」わけではないということだ。
以上の話には、まだまだ複雑な側面がいくつも絡んでいて、今日書いた内容だけではすべてを説明できないが、とりあえず現段階でいえることは2つ。
「マクロの解像度はどこまでも上げたいが、ミクロの解像度は上げれば良いというものではない」
と、
「ミクロの所見は真実を見いだそうと思って探すのではなくて、統計学的な処理を加えないと、少なくとも人々の暮らしに実用するデータにはならない」
だ。
ここに気づかずに病理診断をしたり、病理診断を利用しようとしたりする人は本当に多い。個人の感想に過ぎないが、たぶん、医師免許を持っている人の4割くらいは、上記のことをあまりよく考えていない(低めに見積もった値です)。
これもまた、「些細なこと」というのは見逃してもそれほど大きな損害を生まないということだ。病理の話は常に入れ子構造になっている。