2018年8月29日水曜日

病理の話(237) 何度目かとなる病理診断とはなんなのかの話

枝葉末節をとことん語るのもいいが、たまには全体をゆるやかに見ておきたいと思うものだ。

だから今日は、すごく入門的な「病理の話」をする。




病気を診断する理由とはなにか? そこからはじめよう。

あなたが具合が悪いとする。

なんだか体が重いとか、あちこちが痛いとか、熱が出ているとする。

それによってあなたが具体的に今どう困っているか、というのは極めて重要だ。

ただ、もうひとつ、とても重要なことがある。

それは、「このあとどうなるんだろうか」という予測だ。

今仮にあなたが激痛に悶えているとして、その激痛があと5秒でなくなり、その後は一度も痛くならないし、命にも別状がないし、二度と同じ症状は起こらない、となったら、あなたはきっとその激痛を放置すると思う。

しかし、あなたの激痛が、何年にもわたって続くとか、命に関わるとか、そういう「やばい未来」につながっていると、この激痛はもう「がまんできない」。




そう、人間というのは、病気を考えるときに、症状それ自体を現在進行形で「やばい」と思うだけではなくて、それが将来どうなっているのかという未来の話を含めて「やばい」と思っている。




診断というのは、今の症状が何によるのかという原因を突き止めるのが目的……ではない。それもあるんだけれどそれだけではない。

今の症状が何によるのかという原因をつきとめたあと、

「だからこの先どうなるよ」

と予測をセットで提示すること。これこそが診断である。




未来のことは誰にもわからない。

ぼくが今、心臓にナイフがささって血が出始めたとする。あーこれは数分で死ぬなと予測する。たぶん当たるだろう。

けれど数分がたつまえに、太陽が突然熱膨張して地球がまるごと飲み込まれて、10秒後にぼくは蒸発しているかもしれない。

ね、未来は誰にもわからない。




けれど未来というのは確率である程度予測ができる。

天気予報くらいにね。

またねと手を振る君、ミラーで送るぼく。

これはASKAだな。まさかASKAがこんなことになるとは予想できなかった。




話をもとに戻そう。

「診断」、というのは、病気、さらには症状が、「なぜ起こっているのか」「どこで起こっているのか」をきちんと分析し、さらに「将来どうなるか」を予測するために行う。

この予測に必要な情報は多岐に亘る。

病気の勢力。病気を敵の軍隊にたとえるならば、その兵士数。どこに布陣を張っているか。

患者の体力。病気と戦う味方の軍隊はどれだけ大軍か。きちんと防御ができているか。

そして、病気軍の「兵士の顔」や「性格」。

同じ5万人の敵軍でも、きわめて凶悪で自分の命を省みないバーサーカーみたいなタイプが5万人いるのと、瀬戸内寂聴さんみたいな人が5万人いるのとでは、おそらく戦争の結果は変わるであろう。




軍隊の勢力や分布をみるにはCTなどの画像を用いるとよい。体の中に病気がどのように分布しているのかがわかるからだ。

一方、兵士の顔をみるなら顕微鏡がよい。病気というのはつまるところ細胞ひとつひとつが何かをしている場合があり、その細胞まで見ようと思ったら顕微鏡は相当役に立つ。




だからときおり、診断の場面では、顕微鏡診断をする。これを担当するのが病理診断である。




逆にいうと、顕微鏡をみるだけが病理診断ではなくて、さまざまな手段で敵の戦力を解析することそのものが病理診断であるともいえるのだが、それはまた別の話……であり、別の話を今まで236回くらい書いてきているわけである。