2018年8月9日木曜日

病理の話(230) 病理医の周りに流れる時間のこと

「日中、顕微鏡を見ないで、教科書の原稿書いたり論文書いたりしてるんだって?」

と少し強めに責められた。

ぼくはてへへと頭をかく。

ツイッターを怒られるのに比べればだいぶラクだ。



その相手は、ばりばりの臨床家である。朝から晩まで患者対応に追われている。

ぼくみたいに、業務時間の1/3くらいしか顕微鏡をみないで、あとはずっといろいろ書いているような人間のことを、「ふまじめ」だと思っているふしがある。




まあ、言い訳をするならば。

病理医の仕事は、顕微鏡をみて診断するばかりではない。

病理医の仕事は、診断にまつわる頭脳労働全般だ。

珍しい症例があれば臨床医とともに過去の報告をあさる。

臨床医の疑問に答えるために、常に教科書や論文を読んで、新しい情報を取り入れていく。

ときには臨床医の指針となるために教科書を書く。

治療も維持もしないのに病院から給料をもらっている以上、ぼくらは「診断」という言葉を小さく捉えてはいけない。

診断をどこまでも掘り下げていくことこそが病理医の仕事。

求められるのは肉体的な努力ではなくどこまでも脳である。

教科書を読むのも頭脳労働。

論文を読んだり書いたりするのだって立派な知的貢献。

臨床医と組んで学会報告の準備もするし、放射線技師や臨床検査技師のための研究会を企画したりもする。

これらはすべて「業務」だ。

余暇でやっているわけではない。

だから本当は、怒られる筋合いはない。堂々と胸を張って頭脳労働にいそしめばいいのである……。




……けれど、怒りたくなる人達の気持ちも、わからないではない。

ぼくらと同じように、彼らにとっても、論文を書いたり読んだりする作業は「業務」のはずだ。そこに違いはない。

けれども彼らは患者を相手する時間が長すぎて、このような「知的労働」を時間内に行うことができない。論文を読もうとするとどうしても時間外になってしまう。

だから、ぼくのように、業務時間内に論文を読んでいるような病理医をみると、うらやましいだろう。腹も立つだろう。

「そんなに仕事が早いからこそ、いつも迅速に診断を出してくださってるんですね、ありがとうございます」

なんて皮肉も飛び出したりする。そう、病理診断が他の施設に比べてすごく早く出ているというわけではないからだ。



病理診断は、「検体処理に要する時間」や「染色に要する時間」に律速段階がある。

病理医がいかにスバヤク診断したとしても、標本処理にかかる時間だけは縮まらない。従って、

「あいつ、今日の夕方さっさと帰ったけど、俺の頼んだ診断まだ出てない! 何を考えてるんだ!」

と怒られても困るのである。

それに、顕微鏡診断というのはなかなか奥が深く、なんでも見れば秒でぴたりと当たる、という類いのものでもないのだ。








10年前のぼくは、今よりはるかに、顕微鏡に慣れていなかった。一日中顕微鏡を見続けていても診断が終わらなかった。すみません、全部みられませんでした、とボスに謝る。ボスはどこ吹く風といった表情でにこにこしている。

彼はめちゃくちゃに診断のスピードが早かった。

ぼくが週末、土日をつぶしてほとんど徹夜で見続けた何十枚もの標本を、ボスは月曜日の午前中にあっという間に見終わってしまう。

しかも、ぼくが見落としていた、細胞1個の異常を確実に発見しながら……。



ぼくも何十年も働けばあれほど診断が早くなるのだろうか。

しかし、どうやらそういうものでもない、ということに気づく。

実はぼくにはもう一人ボスがいるのだが、こちらのボスもいわゆるベテランだ。診断の精度はとても高い。

……そして、診断は早くない。むしろ遅いくらいだ。

ひとりの検体を、じっくり、ゆっくり、長い時間をかけて、悩みながら、ずーっと眺めている。

土日も顕微鏡を見続ける。



同じ「ボス」であってもスタイルによって勤務の仕方が違う。必ずしもキャリアに比例しない。

勉強すればするほど、レアな病態を学ぶために、かえって診断が遅くなる、ということもある。









先日、スポーツ選手が出てくる番組を見ていたら、いわゆる「ゾーン」の話をしていた。プロスポーツ選手の一部は、たまに脳内物質が激しく出過ぎて、ふしぎな「ゾーン」に突入するという。

有名なのは川上哲治だろう。ボールが止まって見えた、というアレだ。まるで自分以外の時間がすべて止まったような状態に……。




病理診断でもそういう「ゾーン」に入れたらいいだろうなあ。

ものすごく長い教科書を一瞬で読めたり、非常に難解な理論を秒単位で完成させたり、推敲しまくった文章をあっというまに出力したりできたら……。




でも、これはもちろん個人の経験なのだけれども……。

ぼくは逆に、頭脳労働の場合は、脳内麻薬が出過ぎると、周りの速度が加速してしまうように思うのだ……。




「あっ! もうこんな時間!! 集中しすぎてて気づかなかった!」みたいな、ね……。

まあこれはまだ本当のゾーンじゃないのかもしれない。ぼくが川上哲治とかアイルトンセナ並みの病理医になったら、「真のゾーン」に突入できるのかもしれない。