2018年8月27日月曜日

病理の話(236) 病理医に向いているかどうか

「はたらく細胞」がおもしろいということなのだがまだ見ていない。……けれどこのブログ記事を更新するころにはもう見ているかもしれない。

出張のときにはいっぱい本を読むからね。電子書籍ならなおさらです。楽しみにしている。



ぼくの性分を書いておくと、人体に何が起こっているかを描いたものについては一通り見ておきたい。さまざまな伝え方があり、さまざまな届き方があるだろうが、それらを時間の許す限り知っておきたい。

まあでも時間も脳の許容量も無限ではない。どうしたって偏ることにはなるのだが。




世の中にさまざまな書籍があり、メディアがある。人々は、生きていくあいだに、これらのどれかを何度か見て、それぞれに体に対する知識を得る。

生理とか病理の話というのは社会や人生そのものだ。豊富で、難解で、象徴的に語ることが可能で、うわっつらだけをすくっても何か知った気になれるし、どこまで掘っていっても終わりがない。

すなわちぼくみたいに、ブログの記事タイトルに「病理の話」とつければ、もう永遠に書くことがある。ネタに困る日などない。




その上で今日は、「病理医に向いている・向いていない」とか「病理医の資質とは何か」いう話をまたむしかえす。

最新のぼくの考えを書く。いつも考えているから、記事ごとに内容は少しずつ異なっているはずだが、そこはご了承願いたい。




病理医というのは病の理を考えて運用する医者だ。「文字っつら」から判断すればそういうことだろう。

実際には、顕微鏡をみる医者でしょとか実験ばっかりしてて臨床のことを知らない医者でしょとかいろんな言われ方をしているが。結局のところ、「病の理(ことわり)」を突き詰めていくのが仕事である。

そのことわりというのは、先ほどから書いているように、そもそも少ない筋道で語り尽くせるものではない。メディアの数だけ? いや、人の数だけ思いがある。切り口がある。それらにすべて材料を提供できるほど広くかつ深い。

あなたがいまから「社会を端的に描写せよ」と言われたら困るだろう。

社会なんて複雑なものは、人がいればその数だけ物語があるからだ。多種多様なストーリーがそこには存在する。

病理もそれと一緒だ。

実は、描写の仕方が、脳の数だけ存在する。



とはいっても、病理学とか病理診断を実臨床で運用する場合には、病理医みなが好き勝手にしゃべっていては臨床医も患者も困ってしまう。

だからいちおう、決めごとがある。顕微鏡というツールが代表的だ。病理医という存在がなんとなくアイデンティファイされてくる。



その上で……。



病理医というのは常に脳をもって病の理を切り取る仕事であるが、その切り取り方は人によって千差万別。

ある理解の仕方は、今すでに病理医である人たちに、賞賛されるかもしれない。

また別の理解の仕方をすると、今すでに病理医である人たちは、「それは違う。考え方がおかしい。」と、非難するかもしれない。

しかし病理を語ることは社会を論ずることと似ているのだ。となれば、人それぞれにさまざまな切り口があること自体はもうしょうがない。

多くの人が使いやすい、利用しやすい解釈方法というのは確かにある。それに従った方が日常の臨床はうまく回るだろう。

けれども、誰も思い付かなかった新しいタイプの「語り部」が、この世のどこかで病理医をやっていたとしたら、そこには新たな学問が生まれてくるかもしれない。科学が先に進むかもしれない。




すなわち「病理医に向いている」「向いていない」というのは、ない。

それは「社会にいていい人間」「いてよくない人間」をわけるのと同じ事だ。

多様性を許容しない場合、「病理医をやっていい」とか「病理医をやってはだめだ」ということが言える。

けれども脳を用いる学問の世界には多様性が不可欠なのである。さまざまな切り口が科学という光に向かって集まっていくことこそが望ましい。




あなたが脳を使って仕事をしている限り、病理医に向いていないということはありえない。

逆にいえば、脳を使った仕事をしたくない人は、病理医としてやれることがあまりない……かもしれない。

でもそんな人はそもそもいないのではないか?

このブログを読んでいる人は少なくとも今、脳を使っているはずである。