2019年3月7日木曜日

病理の話(301) 感情移入病理医のこと

もうだいぶ昔になってしまった、ある思い出話をする。



あるときボスと一緒に顕微鏡をみていた。

すると彼は悲しそうにこう言った。

「若いのになあ」



顕微鏡にわずかな違和感をとらえたボスは、ぼくならば見逃してもおかしくないような難しい診断を、さらりと下した。ぼくはその診断にたどり着いたボスを尊敬した。

ところが彼は自らの会心の診断を全く誇らなかった。

むしろ、悲しそうに、いかにも残念だ、という表情だった。

その病気は、治療が難しいことで有名だったからだ。診断がうまくできたことはいいとして、患者にとっては決して朗報ではなかった。

ボスは、患者の年齢とこれからの運命に対して瞬間的に思いを馳せ、「まるで素人のように」感想を述べたのだった。




ぼくはその姿に心を打たれた。




ボスの苦悩は「ポーズ」などではなかった。あきらかに彼の人間性がもたらした、「厳しい病気の人を目にしたときの、自然な感情の発露」だと思った。

自分の仕事が常に「悲しみを宣告する」という側面を持っていること。

わかってはいた。わかっていたつもりだった。

けれどもボスの嘆息する姿をみて、ぼくは果たしてそこまで患者に想像力を働かせているだろうか、と、疑問に思った。

病理医は年間5000人くらいの患者とすれ違う。

ざっくりと計算して、普通の医者の5~10倍といったところか。

ただし、すれ違うのは患者のごく一部分だけ。患者から採取されてきた組織片や、小さな細胞のかたまり。これらを肉眼や顕微鏡でみたり、遺伝子検査を行ったりして、患者の病気の本質に迫る。

つまりは患者と会話しない。患者の生活を共有しない。あくまで病気と向き合えばよい。だからこそ臨床医が出会う患者の何倍もの患者と「瞬間的にすれ違う」ことが物理的に可能となるのだ。

多くの病理医は、そして、大量の患者とすれ違う際に、いちいち患者の人間的な部分に興味を払うことはしない。

というか、できない。物理的に多すぎるのだ。

札幌ドームで野球が開催されるとき、受付でチケットをちぎる人は、客一人一人の表情をみて、連れ立って歩いている家族や友人を眺めて、彼らの感じていることや抱えているものを想像しているだろうか?

普通は無理だと思う。多すぎる相手と一瞬だけすれ違って仕事をしていく関係というのはそこまでウェットではあり得ない。

けれども、ボスは、どうやら、ひとりひとりの患者に、想像力を働かせているようなのだった。

ぼくはなんだか呆然とした。





ひとりひとりの患者に感情移入していたら、年間5000件の診断はやっていけない。

それは負担が大きすぎる。病理医の精神がつぶれてしまう。

けれども、「するな」といって、「やめられる」ものでもない。

だからたいていの病理医は、多かれ少なかれ、患者に対して「ちょっとだけ」心を投げかける。それは一方的かもしれない。けれども、投げかける。

その「ちょっとだけ」が、ぼくから見て、ボスの場合は、どうもずいぶんと、大きいなあと思った。

果たして、ぼくはどこまで患者のことを想像できるものなのだろうか、と、そのとき思った。




もう10年以上昔の話だ。

昨日のことのように思い出せる10年前のできごと。

ほかには、ない。このことだけを強く覚えている。我ながら、よっぽど「悔しかった」のだろうな、と思う。なぜだろうな。