2019年3月12日火曜日

移動する点Y

寝ても寝ても眠い、というのはもはや人間の真理だと思っていた。

でも、ちがった。

40になろうかという頃から、この、寝ても寝ても眠い、という状況が覆った。

話に聞いてはいたが、自分に起こりうることとして、あまり真剣にとらえていなかった。

「寝ても寝ても」ができなくなったのだ。

朝方になり、目が覚めてから、十分に二度寝ができなくなった。寝続けるには体力が必要だったのだ。

あまり長く寝ていると体が痛くなる。枕が外れて寝ていたためか、首が痛い。そろそろ体を動かさないと余計にだるくなる、という感覚にたまに襲われるようになった。

トイレにも行きたいし。

いったん目が覚めてしまうと、その日やろうと思っていたことを思い出して、ああ、もうそろそろとりかかろうかなあ、と気にしてしまう。

するともう眠れない。




寝ても寝ても眠い、という現象は若いときだけだったのだ。

寝続けられないのだから。

今はこうだ。

「結果的に眠い」。

自分で能動的にどうにかできることの数が減り始めている。

「結果として」、どうこうなることが少しずつ増え始めた。




若い頃、いわゆる「積ん読」の人をみて、「なぜ本を積んだままにして不安にならないのだろうか」「なぜすべて本を読んでから次の本を買おうと思わないのだろうか」と、非常に疑問だった。

でも今ならわかる。

本を読み続けるには体力が必要だった。

本は、読み残しているわけではない。いつのまにか残ってしまうのだ。

自分でどうこうできるものではなかったのだ。




能動でできることの数量、質の深さ、それぞれ変質してきている。

あれもこれもとできなくなった。時間をかけられなくなった。

こういうことを言うと、もっと年上の人たちから、「まだいいほうだよ、そのうちもっとできなくなるから」と言われる。

でも彼らはわかっていない。

ぼくが今実感しているのは、数量や深さの「絶対値」ではない。

それが加速度をもって「減り始めた」こと。

関数に例えるならば、点Pの座標そのものではなく、その点Pが加速度を持って落ち始めたという「傾き」におののいているのだ。

絶対値が高い、低い、ということよりも、変化率のほうに、軽い恐怖を覚えている。




恐怖とともに、自分が今「能動的に」どう対処していこうかということを考える。

朝寝ができなくなったというならば、夜は少し早めに休んでおいたほうがいいだろう。

夕方以降にあまり興奮するのもよくないだろうな。

めしの食い方、酒の飲み方。運動の仕方。

そして本を読むタイミング。

こうしたものを少しずつずらしていって、自分が能動で何かをやれる部分を改変していかないとな、と思う。

流されまくって生きていくのも、悪くはないけれど……。