寝ても寝ても眠い、というのはもはや人間の真理だと思っていた。
でも、ちがった。
40になろうかという頃から、この、寝ても寝ても眠い、という状況が覆った。
話に聞いてはいたが、自分に起こりうることとして、あまり真剣にとらえていなかった。
「寝ても寝ても」ができなくなったのだ。
朝方になり、目が覚めてから、十分に二度寝ができなくなった。寝続けるには体力が必要だったのだ。
あまり長く寝ていると体が痛くなる。枕が外れて寝ていたためか、首が痛い。そろそろ体を動かさないと余計にだるくなる、という感覚にたまに襲われるようになった。
トイレにも行きたいし。
いったん目が覚めてしまうと、その日やろうと思っていたことを思い出して、ああ、もうそろそろとりかかろうかなあ、と気にしてしまう。
するともう眠れない。
寝ても寝ても眠い、という現象は若いときだけだったのだ。
寝続けられないのだから。
今はこうだ。
「結果的に眠い」。
自分で能動的にどうにかできることの数が減り始めている。
「結果として」、どうこうなることが少しずつ増え始めた。
若い頃、いわゆる「積ん読」の人をみて、「なぜ本を積んだままにして不安にならないのだろうか」「なぜすべて本を読んでから次の本を買おうと思わないのだろうか」と、非常に疑問だった。
でも今ならわかる。
本を読み続けるには体力が必要だった。
本は、読み残しているわけではない。いつのまにか残ってしまうのだ。
自分でどうこうできるものではなかったのだ。
能動でできることの数量、質の深さ、それぞれ変質してきている。
あれもこれもとできなくなった。時間をかけられなくなった。
こういうことを言うと、もっと年上の人たちから、「まだいいほうだよ、そのうちもっとできなくなるから」と言われる。
でも彼らはわかっていない。
ぼくが今実感しているのは、数量や深さの「絶対値」ではない。
それが加速度をもって「減り始めた」こと。
関数に例えるならば、点Pの座標そのものではなく、その点Pが加速度を持って落ち始めたという「傾き」におののいているのだ。
絶対値が高い、低い、ということよりも、変化率のほうに、軽い恐怖を覚えている。
恐怖とともに、自分が今「能動的に」どう対処していこうかということを考える。
朝寝ができなくなったというならば、夜は少し早めに休んでおいたほうがいいだろう。
夕方以降にあまり興奮するのもよくないだろうな。
めしの食い方、酒の飲み方。運動の仕方。
そして本を読むタイミング。
こうしたものを少しずつずらしていって、自分が能動で何かをやれる部分を改変していかないとな、と思う。
流されまくって生きていくのも、悪くはないけれど……。