2019年3月11日月曜日

病理の話(302) わからなみが深み

どこか具合が悪くなったときに、病院に行く。

なぜ自分の具合が悪いかはよくわからないが、どこかに痛みがあったり、けだるさがあったり、せきとか鼻水とか下痢などの症状があったりする。なぜかはわからないが、何かが起こっている。

「わからないけれど、いやなことが起きている」。

これで人は病院に行く。



病気の名前を教えてもらい、その対処法も教えてもらう。

病気の名前を聞いても、「わからない」ことに代わりはない。

薬をもらったところで、その薬がどうやって自分に効くかは、「わからない」。

おまけに薬がいつ頃効き始めるのかも、「わからない」。

どれくらいしたら治るのか、あるいはよくなるのか、「わからない」。



病院に行ったあとも、「わからない」は延々と続く。

そこを丁寧に解きほぐしてくれる医療者に出会えば、「わからない」はある程度解消される。

けれども、医療者も、次から次へとやってくる患者を目の前に、すべての人に一から十まで説明をするほどの時間はない。

残念ながらそれは事実。だから、「わからない」は、残る。

でも……。

「わからない」は残っても、治療をすれば良くなると、医者は言っている。

治ってしまえば、今こうして悩んでいたことなんて、きれいさっぱり忘れる。

だったら、多少「わからない」ままでも、いいかな。




人間はわからないものを放置したまま生きていける。

知るために苦労しなければいけないとか、知るために時間がすごくかかるとなったら、とりあえず「わかること」を後回しにできる。優先順位を下げられる。

インターネットがなぜこんなに瞬間的に情報をやりとりするのか知らなくても、ぼくらはスマホで動画を見ることができる。

それといっしょだ!




それといっしょだ!

と書いたから、きっと、これを読んでいる人のうち何割かは、

「違う!」

と勢いよく反応してくれたのではないか。

「違う! 私はやっぱり知りたい! だって自分の体のことだもの!」




当然だ。だから医療情報が世の中にあふれるのである。

そして……。




実は医療者も日々わからないことに直面している。

この薬を使えばこの病気が治るということは、「わかった」。

でも、同じ薬を使ってもうまく治らない人がいるときがある。

治る人と治らない人の違いはなんだろう? 「わからない」。

仮に、「わからない」ままであっても、この薬を使えば一部の人は確実に治るわけだし、治らない人には別の治療をすればいい。理由がどうあれ、やることは変わらないのだ。

だから、「わからない」ままでも、いいのだ!




……よくない! いいわけあるか。

ということで、医療者は常に、自分たちが用いる医学の細かな疑問点……マニアックな「わからない」を、問い続けている。

その問いを掘り下げ、解決法を探る仕事をする人たちの中に、病理医もいる。

だって我らは「病の理」を追い求める医者なのだ。

「わからない」を「わかる」に変えてくれる「理」を探すのがぼくらの仕事。




……ただ病気に名前を付けるだけならAIでもできる。

けれども、「わからない」を「わかる」に変える作業は、今のところ、人間の方がだいぶ得意なのだ。