ホワイトデーにこれを書いている。
うっかり「お返し」を多く買いすぎた。
去年までチョコをいただいていた方が退職されたのを忘れていた。例年通りの個数を買ってしまった。
もはやすでに「もらったことに対するお返し」というよりも、「何かを差し上げる日」となっている。だからもらった数をきちんと確認せずに、いつもの数でお菓子を揃えてしまったのだ。
ま、そこまで目くじらをたてることでもあるまい。お菓子は、自分のために買っていいものだ。余ったら食う。食うために余らせる。
「さようなら」という言葉は元来、「左様ならばこれにて御免」のような長いフレーズの一部であった、みたいな話をずっと掘り進めていくのは楽しい。
けれども、だからといって、「さようなら」には「左様ならば」の意味を今でも込めるべきだ、とは、ぼくは全く思わない。
慣用化したフレーズには慣用化したなりの使い勝手というものがある。
習慣化したイベントは習慣にまかせて駆け抜けてしまっていい。
元は「甘い愛」に関連したイベントであったホワイトデーも、すっかり「甘い物体」の日として定着してしまった。少なくとも、ぼくの中では。
それが悪いとは思わない。ポジティブにとらえていきたい。
恵方巻きはコンビニの陰謀と言った人がいた。
資本主義に踊らされるな、クリスマスは仏教徒として過ごせ、みたいな人もいた。
彼らはあるいは冗談で言っていたのかもしれない。まあ食品廃棄はいけないことだと思うけれど、それは精神的な問題ではなく、どちらかというと需給バランスを読み違えた社会構造をなんとかすればいいという話だ。資源や食料を大切にしている限り、これらはとてもいいイベントだと、ぼくは思う。
ほんとは土用の丑の日だって、需給をきちんと整えておけば、悪くない日だったのにな。
ぼくはうなぎをもっと喜んで食べたかった。そういう21世紀だったら、今よりもうちょっとだけよかったな、と、思わなくもない。