そのことばは、ぼくの頭の中でテントを張って住み着いているようだ。
ときおり、テントの前をあけて顔をひょこりと出す。こちらを見て何事かジェスチャーをする。気になって仕方がない。
そのことばはぼくの中に長いこと住んでいるうち、見た目が少しずつ変わった。背が伸びた。髪も伸び、無精ヒゲも生えている。けれども、中身はたぶん、変わらない。
こんなことばだ。
「ヤンデル先生には、何か、世界を理解しようとするときに、よりどころにしている言葉、みたいなのがあるんですね。今はさしづめ、『複雑系』でしょうか。」
実際に一語一句こうだったわけではない。
残念ながらぼくの記憶力は皆さんよりも少しだけ悪い。だからこの文章も、今、頭の中に残っているイメージを元に再精製したものだ。ニュアンスはあっているが言い回しは完全に「ぼく作」。そこはご容赦いただきたい。
ぼくは、人の顔、恩義、旅行に行った場所、覚えておくべき電話番号、何もかも、「興味がない」ので、ものすごいスピードで忘れていく。
覚えているのはいつもインデックスの部分だ。インデックス、すなわち見出しや目次の部分だけを忘れないようにしている。その都度、見出しをたよりに、検索しなおすことで記憶を取り戻して補完する。このとき、顔とか、場所とか、イベントの内容などをインデックスとして採用していないので、ときどき信じられないような忘却を果たす。
直近では、タニタ公式の顔を忘れていた。ある会で再会したときに最初わからなかった。勘違いしないでほしいのだがぼくは彼という「実存」自体には強く興味がある。ただし、彼の「顔」に興味がないのだ(なお彼はけっこうなイケメンではある)。
カツセマサヒコの顔も思い出せないが、彼はアイコンに顔が出ているので、ときおり記憶を補強できるから安心だ。さらに言えばぼくはFacebook大賛成派である。顔を出しておいてもらわないと、ほとんどの人の顔を思い出せなくなる。
忘れてしまうのは顔面だけではない。
先ほどのように、犬がかつて言った「ことば」も、細かい節回しについては全く記憶にない。
「ヤンデル先生には、何か、世界を理解しようとするときに、よりどころにしている言葉、みたいなのがあるんですね。今はさしづめ、『複雑系』でしょうか。」
ほんとにこんなことだったかどうかは全く自信が無い。
「ヤンデル先生は、たとえば『複雑系』みたいなキーフレーズを用いて、世界の仕組みを理解しようとしているときがありますね。」
「ヤンデル先生はさあー、何か言葉を手に入れると世界の見え方がグアッって変わるタイプじゃないかなああー。いやーそれはあれだよ、わかるよ、ガハハハ、おもしろいやつだよ。」
「ヤンデル先生は、世界にひそんでいる共通法則みたいなものを、言葉のかたちでピックアップしていこうという気概があるんだピョン。たとえば『複雑系』みたいなキーワードとしてだベシ。」
おわかりだろうか、これらは、ぼくの中では「一緒」である。
犬はかつて、「そういう意味のこと」を、「そういう概念」を、確かにぼくに言った。というか、言ってないかもしれない。概念すらこの数年で少しずつ入れ替わっていった可能性もある。
でも、数年前の犬とのやりとりが、ぼくの脳内で6次産業的に生産・加工・出荷・販売されて、時と共に変質しながら、しっかりとぼくの中に蓄積されていることは事実だ。まるで文芸史とか芸術史のようだなあと思う。今はもう別モノかもしれないが、確かにそこにあった。
ぼくは、どうもさまざまなディテールに対して、「注意」(文字通り、意を注すること)することが苦手だ。かわりに、多くの見出しを自分の中に整理して、その都度確認することで概念自体をまるごと体内に組み立てる。
そのとき、あらゆるディテールの中でぼくが唯一大事に覚えようと心がけている「インデックス」は、「ことば」なのだろう。ぼくはいくつかの少ない「ことば」を頼りにして、あやふやな記憶やあやふやな風景をカタチに仕立て上げている。
犬はそこを見抜いていて、ぼくが数少ないことばを足がかりにして思考を組み立てるタイプの人間だということを指摘したのだろう。
・複雑系、群像劇
・中動態、居場所
・分類思考、系統樹思考
・言祝ぎ、他己顕示欲
・プリコラージュ、SNS
これらはいずれもキーワード、すなわち単語に過ぎない。名言感がないし、座右の銘にすらならないだろう。
けれどもぼくは、秒単位で忘れていく過去どうしを必死で頭の中で組み上げていくために、常にこれらのキーワードたちを「接着剤」にして、あるいは「看板」のように掲げて、なんとか過去と現在と未来を上演するシアターみたいなものを作り上げられないだろうかと、毎日うんうん唸っている。
・シアター
という言葉は、複雑系を世に示す手段として考えた、現時点では最適の「便利なことば」である。