2020年8月24日月曜日

病理の話(446) 病理診断のコンテンツとコンテキスト

タイトルは妙にソレっぽくしてしまった。ネットっぽい。内容はもう少しどろくさい。



病院で、医者が患者に、「これは○○ですね、△△です」と説明するシーンがある。

このとき、患者は、○○や△△について、医者と同じ理解をしているとは限らない。


基本的に、医者のほうがくわしい。ぱっと「○○ですね、△△です」と言われても、患者はどぎまぎするばかりで、そうカンタンには理解が追いつかない。


※ときに、患者の側が非常によく調べており、医者よりも部分的に詳しくなっているように見えるケースもある。しかし、実際のところ、患者は「○○に似た◎◎との違い」を区別することはできないし、「○○だけど□□です」のケースにも思いが及ばない。それはそうだ、医者はそういうことがわかるように訓練しているし、患者はそういうことがわかる必要がない。したがって「患者の方が医者より詳しい」ということは、局所的にはあり得るのだけれどもトータルではまずあり得ない。以上は蛇足。


では、患者は「○○ですね、△△です」と言われて、そこで医者に対して「わからんわからんわからん! わかるまで教えて!」とねばるかというと……。


これが、まあ、ねばらない。というかねばれない。


多少は質問する。不安だから聞いてみたい。しかし、「どう質問していいか」すらわからないので、たずねようがないのだ。


では患者はどうするか?


まあさまざまなケースがあるのだけれど、多くの人に話を聞いてみると、どうも以下のような対応をしている場合が多いようである。


「……ま、なんとなくはわかった、一部はわからんけど、医者を信頼しよう! 悪いようにはせんだろう」。


自分に起こった○○とか△△というものを全て理解して対処しようと思っても難しいのだが、その診断名や分析内容を担当してくれた医者を信頼することで、自分がぜんぶ理解しきっていなくてもいいや、というところまで心を持っていって、安心する。


となるとここで必要なのは医者の学力とか分析能力よりも、「人当たりのよさ」だったり、「また通いたくなる雰囲気」だったりするのだ。




さあ本項は病理の話。これと同じ事が病理診断にも起こっているということを書きたい。ここまでは前フリだったのである。




実は、ぼくらが「病理診断報告書」に書く病理診断の内容を、10割理解している臨床医はほとんどいない。


「○○ですね、△△です」のうち、○○もしくは△△までは理解しているというケースは多い。しかし両方とも完全に理解している医者は少ない。「まれである」と言ってもいいかもしれない。


「この細胞が作る高次構造には構造異型があり、細胞そのものにも異型があり、細胞内の核にも異型がありますね、従ってこれは高分化型管状腺癌です。」


このような説明を受けた主治医は、「癌です」の部分はきちんと理解する。また、前半部の、「異型があり」的な部分もわりとしっかり理解する。


けれども異型とはなにかと聞けばまず間違いなく答えられない


というかそこを判別できたらそれは病理医なのである。主治医は病理医ではないのだ。


「核異型くらいわかるよ」という臨床医もいる。しかしこれは「よく調べている患者」と同じことだ。「強い核異型がある」ことはわかるかもしれない、しかし、「異型がないケースと比べてなにがどう違うか」をきちんと言語化することはできない(できたら病理医である)。



となると、主治医は病理医のいうことを完全にわからないまま診療にうつることになるが、それでいいのか?



いいのだ。ただし、病理医の側から主治医に対して、「ここまでわかってくれればあなたがたの仕事には支障がでない」と示すことが望ましい。


そしてなにより、主治医が病理医に対し、「あの病理医なら、詳しく専門的な評価の部分をまかせられる」と信頼してくれていることが絶対に必要である。




以上の「病理医と主治医」の関係性はぶっちゃけ、「医者と患者」の間柄に近い。だから病理医はしばしば「ドクターズドクター」と呼ばれるのだろう。しかしぼくは(これまで何度も書いてきたが)この言葉があまり好きではない。


病理医が対面して対応するのは主治医だ、それはいいのだが、ぼくらが本当に相手にしているのは患者(の一部)である。「主治医にとっての医者」を気取るあまり、自分たちの仕事相手として患者が見えなくなってしまうようでは本末転倒だ。病理医もやはり「ペイシェントのためのドクター」であるべきだと考えている。だからぼくは、主治医に対して医者のように振る舞っていることを自覚しながらも、ドクターズドクターという言葉を使わないようにしているのである。