インタビューなどで「新型コロナウイルスによってなにか生活が変わりましたか?」と質問されることがある。
これ、答えづらい。いや、聞きたいことはわかるし、答えだって明確だ、「変わった部分と変わらない部分がある」と事実に即して回答すればいい。しかし「その先」を想像すると、やっぱり答えづらい。
その先とは何かというと、「そんなことを聞いて、答えを書いて、それがいい記事になるのか?」ということだ。このQ&Aにぼくが答えると、紙面が陳腐になるのでは、と直感的に抵抗がある。
もちろん、インタビューができあがってみると普通に読める。さすがプロだ。時候に即した問答だし、きちんと成立している。
でも読んで2日もすると、その記事を読んだ記憶どころか、質問された記憶や自分が答えた内容ごと脳から吹き飛ぶ。
我ながら、自分の言葉が長持ちしない。心に刺さらない。つまらん。
「そうですかー」「人それぞれですよねー」以外の感情が湧いてこない。
そういうことが何度か続くと、次に同じ質問をされたときには、「少しでもおもしろく答えないと先方にわるいな」というプレッシャーがかかる。でも新型コロナウイルスによって変わったことなんておもしろく答えようがない部分が多い。だからこの質問はいつもキツいなーと思う。
「学会に行けなくなったんですけど代わりにZoom研究会が増えたんですよ」
これ、そんなにおもしろいか? 自分で答えておいてアレだけどさ……。
ところでそもそも、変化しない人間は記事にできるのか。
「変わらぬ存在」なんて書きようがないのではないか。
長年ひとつの仕事を職人のように、あるいは芸術家のように続けてきた人に対するロングインタビューを読んでいると、途中で質問者が、
「こうして30年もの間、変わらずに一つのことを続けてこられたのはなぜですか?」
などと尋ねているけれど、その前後にはたいてい、
「何がきっかけでこの世界に入られたのですか?」
という質問がセットで存在する。結局、「変わった瞬間のこと」を尋ねている。そうしないと間が持たないのではないかと思う。
「どう変わったか」にこそ反応するというのは、人間の知覚のシステムとも似ている。眼球の知覚するものは基本的に動き続けているものばかりだ。背景で動かないものはいつの間にか知覚できなくなる。いっさい動かないものはバックグラウンドとしてカットする。そうしないと処理する情報が多くなりすぎるのだろう。
インタビューにおいて問われる「きっかけ」「理由」「感想」などはいずれも、究極的には「変化」をたずねるものだ。
そしてぼくは今回の新型コロナウイルスに伴う自分の変化がいまいちおもしろく感じられない。なぜだろうか。
おそらく、まだ、渦中にいるからなのだと思う。ぼくはまだシケインを曲がっている途中なのだ。感じているものと考えていることとのズレ、見てきたものと見ているものとのギャップ、そうしたものを埋めるに足るストーリーがまだ、ぼくの手元まできちんとやってきていない。衝突に伴う生成変化を語るだけの言葉が揃っていない。
「何か変わりましたか?」にきちんと答えられるほど、変わった自分を目視できていない。
……じゃあ東日本大震災のあと自分がどう変わったかとか、病理医になってから自分がどう変わったかとか、医学部に入った後に自分がどう変わったかとか、そういうことなら答えられるかというと、うーん、もしかすると、うまく答えられないかもしれない。自分が変わったことを認識することと、ソレを言語化して誰かに伝えることとはわりと別の能力なのである。インタビューって怖いな。受けるだけで人間が変わってしまう。