2020年8月25日火曜日

いさめる男はイサメン

 イケメンという言葉もイクメンという言葉も微妙だなと思う。


なので並べてみた。


イカメン(イカである)

イキメン(鮮度の良い麵)

イクメン(そだてている)

イケメン(いけている)

イコメン(憩っている)


個人的にはイコメンが方言の香りがしていいと思う。





みたいな短いものを、20年ほどまえにホームページによく載せていた。今にして思うとこういう文章には先達がいっぱいいて、ぼくの目に触れるのはそういうのの中から選りすぐられた「達人」のものばかりであった。ネタツイという言葉がまだ元素の段階でしか世に存在しなかったころの話である。


あのときぼくにあったスケベ心は今もぼくの中にある。「クスッという文章を書けるのが一番いいよな」みたいな斜に構えたなにものか。中心を太く強く刺すのではなく、へりをこちょこちょとくすぐるようなユーモア、ウィット。


ところが、20年来抱えていたスケベ心は、中年という溶媒に流し込まれることですっかり溶け込んで見えなくなってしまった。中年という溶媒自体がうっすらとスケベ心の香りを発しているのだ、いまさらこんな薄味の媒質を世に出しても、もはやアイデンティティとして掲げることはできない。




思春期に自分の境界(ボーダー)をどこまで広げられるかと汗をかきながら、広い広い牧場のかたすみで柵を引っこ抜いては少し外側に立て、引っこ抜いてはカタチをゆがめていろいろやっていたあのスケベ心を、ぼくは今、牧場全体を俯瞰するドローンに乗って眺めている。牧場の外周には山が取り囲んでいて、ここは盆地になっている。ドローンの高度は低くて山の向こうはかすんでみえない。境界をちまちま動かしていた牧場の、柵の中にも外にも同じように草原が広がっていて、馬も牛も好きなようにやわらかそうな草を食んでいる。


そしてぼくは今も時々ドローンから地面にふわりと降り立って、視野を狭くして、柵の中から外をみるふりをするけれど、柵の中も外もそこそこわかってしまった今、山の向こうを見に行くのはおっくうで、ちょっと怖くもあり、まあもう少しこのへんの柵はかっこよく配置しなおしたほうが何かと見栄えがいいかななどと、ちまちま昔とおなじような柵の移動をくり返してみるのだけれど、かつてほどのヒリヒリした感覚、「自分は今、領域を広げているのだ」という快感は得られない。


ただしヒリヒリした快感はないのだが、憩う感じの快感もあるのだなと、柵にまたがってぶらぶらと足をさせながら、イコメンになっている。