書評というのは、思ったことを早めに言葉にする仕事だ。いつもは心の中で自分のためだけにもてあそんでいればいい、読後感の中でもいちばん生々しい部分を、急いで商業的な言葉にして多くの人の目に触れさせ、それによって本を買ってもらおうとする試み。
書評を頼まれてから本を読むときは読書のスタイルがいつもと少し変わる。普段やっているような、ポテトチップを無心で口に運び続けるように文字を脳に運んでいくドクショは、なかなかできない。
(このような文章を書くと、「ポテトチップス」が正しいのだろうか、と気になってしまう。ブログ以外では。)
書評を頼まれてから本を読むときは「この文章をとっかかりにしてあとで感想を膨らませることになるのかな」などという浮気心のようなものが、本とぼくとの間にただよう。
これはいいとも悪いとも言える。ぼくは普段、読み終わった本の印象的なフレーズなどをほぼ覚えない。あれだけ読んだ沢木耕太郎の深夜特急ですらそうだ。こないだまで「あのnice breezeがいいんだよね」とか言っていたけど、先日読み直したら「breeze is nice.」と書いてあってぶっ飛んでしまった。印象に残ったフレーズが間違ってるのうける。フレーズに興味がないのかもしれない。『麦ふみクーツェ』があんなに好きだったのに、何を書いてあったかひとつも覚えていない。不思議だ。「この世には不思議なことなどひとつもないのだよ、関口君」。今検索したら「何もないのだよ」だった。ごめん。
ときどき付箋などを貼ってみたりもする。
付箋の枚数が増えると本の縁辺が森のようになるばかりで、結局見返すことはない。付箋をうまく活用できない。「今自分は仕事で本を読んでいます」という宣言をマーキングしているかのように見える。まあ嫌いではない。写真を撮っておく。付箋まみれの本はフルメイクを決めた女優さんのようだ。誇り高い。写真を撮った後にぜんぶ剥がす。本棚に挿すのに邪魔だからだ。結局なんのために貼ったのかよくわからない。
そうやって浮気心とメイクをごりごりに施しながら力のある本を読んでいくうち、次第に、文章の中に没入していく。
序盤は付箋が多かった本も、中盤から終盤にかけてはまったく何も貼られなくなっていく。
読み終わって我に帰ってノドを鳴らす。
「しまった後半ぜんぜんチェックしてない……」
「早めに言葉にできなかった感情」の中に、本を読む醍醐味がある。
書評にはその部分はなかなか出せない。というか、これから本を読みたいと思っている人にとって、「ぼくが必死で言語化した感情のコアの部分」を、読書前に見せられるのはあまり気持ちのいいものではないだろう、という妙な開き直りもある。ぼくは書評では商業の気分になりきるべきだと思っている。書評に多く語られすぎた本は不幸であろう。書評にダマされて買ってみた、読んでみた、書評よりもはるかにおもしろかった! なんだあの書評家、もっとうまい書き方があるだろうに……と思われるのが一番いいのではないかと思う。
本が出る前に書評を頼まれることがある。まだ製本されていないので、PDFや印刷物でゲラを送られる。それを読む。けっこう苦労する。
読み終わって書評まで書くとPDFもゲラも捨ててしまい、本の発売日を待って、買いに行って、手に取る。
ああ、この装丁、この紙質、この重量を感じながら読んだら、どれだけ幸せだったろうか……。
ここでいったん、書評など引き受けなければよかった……と軽く後悔することもある。
1か月くらい前に読み終えて感想まで書いたはずの本。
購入後にわりとすぐ読み始める。
そして、「書評用の読書」ではたどり着けなかった、自分の生の感情とはじめて出会う。ぼくはこの瞬間がけっこう好きである。結局のところ、書評を頼まれるというのはとてもありがたいことだ。なんだかんだ言いながら、本と多角的に向かい合うお膳立てをしてもらっているようなものだ。