今日はちょっと小話に近い。
これから非常に専門的なことを書くので、読み飛ばしながらみてほしい。あるいは「各段落の文字数」だけ見てもらえれば、今日の大意は伝わるかもしれない。
ある病気に対する病理診断を、以下のように記載することができる。
「長円形の腫大核を有する異型高円柱上皮細胞が、核の偽重層化を伴いながら比較的均質な腺管構造を形成して増殖する像を認めます。核の極性・軸性は比較的保たれています。低異型度腺腫と診断します。Surgical marginはtumor negativeです。」
しかしこの診断を、以下のように記載することもできる。
「典型的なlow grade tubular adenoma, 断端陰性。」
まるで情報量が違うではないか、と思うだろう。専門用語はともかくとして、長さが。漢字の量が。読後感が。
敬語や英語の使うタイミングなどもそれぞれ異なる。
さあ、どちらのほうがよいレポートか?
これらの病理診断を読むのはまず主治医だ。そして患者も目にする。
「場合による」。これが答えだ。
唯一解というのは存在しない。
細かく専門的でごちゃごちゃしているレポートが喜ばれるタイミングもあるし、短く断定口調のやや不親切なレポートが場に合っていることもある。
主治医の中には、患者の前でこのレポートを開いて、いっしょに文章を読みながら噛んで含めるように説明するタイプの人がいる。
また、逆に、「病理の結果は○○でしたよよかったですね」と、自分でさっと解説してしまってそれでおしまいにする人もいる。
病理医は、主治医がどちらのタイプかを「読む」。
自分に依頼を出してきた主治医が、どういう病理診断報告書を好むかを、本人の性格やこれまでの言動などから推理しつつ、ときおりは実際に会話して確かめるなどして、探る。
そして主治医がほしがっているほうのレポートを出す。
ときに、同じ主治医であっても、病理診断の依頼書に書かれているテンションに差があり、「ああ今日はいつもより詳しい説明を求めているな」と感じることがある。そういうときは電話で確認をしておく。
ちなみに、単に主治医の思う通りに書けばいいというものでもない。
たとえばある主治医が最近は病理のレポートをあまり読んでいないなと思ったら、そのときは「ちゃんとここにも人がいて、診断をしてるからな」というニュアンスを報告書の中ににじませる。「一人でやるなよ、おれもいるぜ」。
たとえばこう。
「組織学的にも管状腺腫の範疇病変です。ただし、表層における軽度のtafting、及び近年報告されている左側結腸の○○(参考文献:----)との類似性があります。拡大内視鏡所見にて□□らの指摘している所見があった場合にはご一報下さい。」
これは本項の最初に示した2つのレポートと「同じ病気」に対して書く可能性がある文章だ。まるで違う文章だし、含まれている情報量も情報の質も異なる。
この「書き分け」は、病理医の職能のひとつである。
診断情報が毎回定型文に収まるようならそれは人がやるべき仕事ではない。機械に判定させれば済む。TPOに応じてアレンジすることに人がやる仕事のおもしろさがある。
若い病理医にこのことを説明するとき、「刺身を米にのっけるだけでおスシと言い張ることはできない」という言い方をする。
職人仕事は文章にしづらいけれど、確かに「差」がある。それを、病理医を目指そうかなと思っている人には感じ取ってほしい。
もっとも、ぼくらはいつもいつも熟練のスシ職人が握るおスシばかり食べたいと思うわけではない。家でブロッコリーをさっと茹でてマヨネーズだけかけて晩飯にしたい日もあるし、コンビニのおにぎりが一番うまい夜もある、この「時と場合による」ニュアンスをわかってもらいたいなと思うのだが、例え話以外ではなかなかうまく説明ができない。