2021年4月22日木曜日

病理の話(528) 医学に派閥は存在するのか

※この記事はnoteにも書いたんですが、もともとブログに載せようと思っていたものなのでシレッとブログにも載せます。


人が集まれば派閥ができるのは、人間社会の常である。


だったら当然、医療現場においても派閥があるだろう……と考えるのは自然なことだ。


医療現場にも派閥っぽいものは、ある。


「B'z派」とか「アンチB'z派」とかね(これはフィクションです)。




ただし、医療の活動原理の根底には「医学」という学問が存在する。


学問においては、「派閥」という言葉を使うよりも、もっといい言葉がある。


それは「学派」。


学派は、一般に言う派閥とは少しだけ性格が異なっている。




学派というのは具体的にはどういう「派閥」だろうか?


具体例をあげて考えてみよう。


たとえば、「邪馬台国はかつてどこにあったのか」という命題がある。これには論争があり、かつて、「九州派」と「近畿派」という二つの学派が存在した(今もかな? あまり詳しくは知らないんですが、例え話ですので大目に見てください)。


それぞれの学説を支持する人々は、互いに証拠を見せ合いながら、争う。


「真実はいつもひとつ!」と決められればいいのだが……。


なにせ、遠い昔の話だ。仮説と仮説を戦わせて、どちらがより「今をうまく説明できるか」という形でしか、論争は前に進まない。


タイムマシンが開発されない限り、「正解」は手に入らない。


かけ算や割り算とは異なり、歴史に何が起こったかを考える作業には、たった一つの正解は存在しない。だからこそ、「学派」が生まれ、学問的な争いが起こる。




ただし、このとき……。


二つの学説が、まるっきり反対のことを言っているわけではないということに注意してほしい。




二つの学派が争っているのは、あくまで、邪馬台国が「どこにあったか」についてであって、邪馬台国の「有無」については争っていない。


「昔の日本には人が住んでいた」ということはまず間違いがないし、それが邪馬台国という集まりを作っていたこともおそらく間違いがないし、「邪馬台国があったのは関東や東北ではなさそうだ」ということもほとんど間違いがない。


「ここまではたぶんみんな同意だよね~」という基礎の共通認識がある。




学問は、「ここまではOKかな、ここまではいいよね」という作業をずっとくり返して作られている。今日の記事の序盤に書いた話でいうと、


起承転承転承転承転承転承転承承承承承承転承承承承承承承承承承承承承承転承承承承承承承承承承承承承承承承承承承承承承承承転承承承転承承承承承承転承承承承承承承承転承承承承承承承承転転承転承


みたいに、「転」を織り交ぜながら、「承」がめっちゃ続いているイメージだ。




たくさんの証拠を集め、多くの仮説をぶつけ合った結果、「みんなもここまではいいよね」という地固めがなされる。


学派が戦うのは常に「承」の先だ。多少過去に戻ったところから「転」でやり直すこともあるが、「起」まで戻るということはない。あり得ない。


ここで、歴史のことをまったく知らない人が、途中から議論に入ってきて、「邪馬台国って本当はなかったんじゃないか。日本人は全部宇宙から連れてこられた可能性もあるよな」と言い出すことには、かなりの無理がある……と思う。


えっ、「起」に戻っちゃったの? みたいな。




「邪馬台国は存在しない説+日本人は昨年宇宙から連れてこられて記憶を植え付けられた説」を突然提唱して、「学派」として名乗りをあげられるかというと、


それはなんかまあ、無理じゃないかなーと思う。






先人達が慎重に語り合った学問の歴史の先端部、「ここまではいいよね」の先で、「今なお決着がついていない部分」について争うのが学問だ。




さあ、話を医学に戻そう。




医学にも派閥(学派)は存在する。しかし、学問における対決は、あくまで、「現時点までに積み上げたことの先で、細部を微調整するように戦う」ものだ。


そこにある「派」は、一般的な意味での「派」とはだいぶ雰囲気が違う。




たとえば、非医療者の中には、医学の世界に「反ワクチン派」があると思っている人がいる。しかしこのような学派はそもそも存在しない。


なぜなら、ワクチンという道具が有効であることは、天然痘、ポリオ、日本脳炎、麻疹、風疹など、さまざまな証拠が揃いすぎていて、「そこを疑うのは医学としてはちょっとね……」というくらい当たり前のことになっているからだ。そこは「起」である。


「日本は24年前に来日した宇宙人が全部つくりました派」が歴史学に存在しないのといっしょ。


ワクチンの科学的な議論は、もはやそんなところには収まっていない。




少し前に、「新型感染症についてファイザー製のワクチンを1回だけ打つか、2回打つか、どちらがより効果が高いか?」という「議論」が繰り広げられた。ただしこの議論、一般にはあまり知られていないかもしれない。なぜなら、これは人と人がテレビに出て口角泡を飛ばして「議論」を行ったわけではなく、各国で行われた臨床試験によって、つまり「データのぶつけ合いによって」検討されたからだ。


すでに、「ファイザー製のワクチンを打つなら2回がいいだろう」という証拠が集まっており、実際に日本国内でもそのように運用されていることは、みなさんご存じの通りである。


話はとっくに先に進んでいる。いまさら「反ワクチン派」が出る幕はない。医学のプロセスの中ではもう存在していない。


えっ、「起」に戻っちゃったの? という話。




顕微鏡がなかった時代、人体には四つの体液があり(血液、 粘液、胆汁、黒胆汁)、これらのバランスで人間は元気になったり病気になったりする、という説を唱えた人たちがいたそうだ。医学の「起」の部分。


19世紀以降、このような段階の議論は誰もしなくなった。「今はもう、そういうレベルの話はしなくてよくなった」。


これが、科学の進歩。


これぞ、「科学は、変化する。」ということ。







「科学がすべてなんですか」「反医学はありえないんですか」という意見もたまーに目にする。


はっきり言うが、「反医学」はあり得ない。それは「起」だ。ただし、「医学の中でなお、慎重に議論を戦わせるべき部分」は存在する。


「変化する」ということと、「共有できる部分がある」ということ。


たったふたつの冴えたやり方で、科学は進んできたし、これからも進んでいくのだ。