園崎未恵さんのラジオ( https://www.youtube.com/channel/UClbFFSflPR0prx4Ork5VrDA )を聴きながら出勤。
デスクについて、そのままワイヤレスイヤホンで聴きながらメールに返信をしようとしたのだけれど、話の内容がわからなくなりそうで、メールはあきらめた。Twitterもやめる。番組が終わるまでデスクワークはせず、サボテンに水をあげたり、コロコロで椅子のホコリを取ったりする。
昔はもうすこし「聴きながら書けた」のだが、たぶんそのころは、聴いていなかったし、書いてもいなかった。では何もしていなかったのか、というとそうではない。聴いているともなく聴き、書いているともなく書いて、それで何か、十分に脳が喜んでいたのだ。もちろん書いたものを受け取った人にはいろいろ感想もあったろう。それでもぼくにとっては、きっと、「それで自分の脳がうれしかった」のだから、ま、各方面に申し訳ないとは思うけれど、ぼくにとってはよかったのだと思う。
集中すればいいというものではない、ということをよく考える。
何かにかかりきりになることのメリットは、細やかにミスを減らしていけること。だから診断のような仕事は没入してやるに限る。ミスによって迷惑をこうむる人が多い現場で、多くの人々がミスをしかねない状態で、最後にぼくがすべてのミスを回収する。箱根駅伝に例えるならば往路の最後でぼくが帳尻合わせをする、すると、復路で安心して山下りができる。そういうイメージ。ここでは集中が確かに役に立つ。
しかし、集中すればいいというものではない。
ぼくは五感の足並みが揃っていない状態で出てくるものがわりと好きである。そういうところに何か、人としてフクザツに暮らしていることの醍醐味を感じることがある。全身を同じブランドで固めて安心するシチュエーションがあるというのは理解するが、たいていの人はTPOに応じて、パンツとTシャツはGUなんだけどベルトとジャケットはちょっと気の利いたブランド、みたいな組合わせをして楽しむ、あるいはやり過ごしていくものだと思う。それといっしょで、自分の全身全霊を没入するのもときどきがいいと思っている。耳はあれを楽しみ、目はこれを楽しむということが、「やれるならばやっていたい」、そう思っている。
しかし……なんかできなくなってきた。耳は耳で脳の体力を使う。目は目で過去のもろもろからいろいろ引っ張ってくる。そういうようになってしまった。本当は五感をあちこちに散らばらせておもしろおかしく突飛な刺激を受けていたかったけれど、そろそろ、集中するわけではなしに、没頭する、そういったムードに体がなっている。外から入ってくるものに対して、反応したがる体内の兵卒が増えてきたなあ、という感じ。使い込んだ五感の尖兵たちは、なんか、勝手にお互い仲良くなっているのだろう。耳が何かをやっているとき、手や目のやつらも、「ちょっと、今は耳にまかせようぜ!」みたいなことを言うようになってきている。そうやって内輪のノリでウェイウェイやるのはよくないんだぞ、ほんとうは、と、脳が神経に嫉妬しているようなところがある。