2021年4月21日水曜日

つぶやくのをやめる

何年か前のアップデート以来、Windows PCとiTunesの相性が悪くなり、何千曲かため込んでいた音源を聴くのが少しだけおっくうになった。ほんの少しの差なのだ。ログインし直すとか、その程度で前と同じように使えるのだ。でもそのマウスの数センチ、数回のクリックが、ぼくと音源との距離を開けてしまった。そこから1年とちょっと、YouTubeでLo-fi hiphopのライブストリームを聴いていたが、主任部長になってからは問い合わせの電話がかかってくる回数が激増し、電話が鳴る度にイヤホンを耳から外すのがおっくうで、結局職場ではほとんど音楽を聴かない状態になった。


何をばかな、そんなの当たり前だろうと思っている人たちは、ぼくの2~3倍くらい長く自宅で過ごしている。ぼくの5倍くらい休日を取っている。仕事中にTwitterとか許せない、という人が寝ている間もご飯を食べている間も映画館やショッピングモールに行く間もぼくは仕事をしている。どちらがすごいとか偉いという話にはならない。時間の使い方が、人生の使い方が違うとしか言いようがない。何度かそのようにツイートしようとした。でも、タイムラインには、攻撃的な言葉を届けたい本人よりも、黙って見ている普通のフォロワーのほうが10万倍くらい多い。結局、つぶやくのをやめる。



「つぶやくのをやめる」。



数年前から何度もぼくを中傷している医師たちがいた。所属はマイナー系だったり、専門性の高い内科だったり。そういう人たちはぼくのことをときに「某病理医」と呼んだり「北の病理医」と呼んだりする。向こうはたいていぼくのことをブロックしているのだが、ぼくはHootsuiteというPCアプリを使っていて、検索機能がブロックされていても関係なくツイートを拾ってくる。「病理医」「病理」「病理診断」で10年検索をかけているぼくの目に、そういうツイートがときおり飛び込んで来る。


ところがある時期から、誹謗中傷がぱたりとやんだ。いよいよ興味をなくされたのか、と感じていたが、その後ほどなくして、医者が主導するクラウドファンディングが増えて、ぼくのところにDMが舞い込むようになった。クラウドファンディングと、DM、一見関係がなさそうだが大ありなのだ。「知ってはいたが最近相互フォローになったばかり、みたいな距離感の人」からばんばんDMが来るのである。内容はこうだ。


「Twitterではいつもお世話になっております、DMでははじめまして。このたび私たちは、崇高な使命の元に、かならず人びとの役に立つ、誰が見ても文句のない慈善事業をはじめます。つきましては、おいそがしいところ誠に恐縮ですが、拡散のお手伝いをしていただけないでしょうか。」


どういうことかな、とクラウドファンディングを見に行く。たしかにいい企画だ。そして、発起人や、コメント欄の最古参に、ぼくの悪口を何度もツイートしていた顔がひっそりとまぎれている。あまりに悪口ばかり言っているから覚えてしまった人が、あそこにも、あっちにもいる。


ああ、まあな……と、腑に落ちることがあった。人は、自分が誰かの役に立っていると確信しているときは他人の悪口を言う暇も無くなるものだ。でも、こうまでわかりやすく誹謗中傷の総量が減ると、少し笑ってしまう。ぼくは最近、あまり悪いことを言われなくなった。


声をかけてきたクラウドファンディングにも、声をかけてこなかったクラウドファンディングにも、医者がやっている慈善事業については内容を精査したあとに毎回おなじ額を寄付する。拡散してと言われても言われなくても基本的にツイートをする。医者が医者に悪口を言ったというのは医者側の問題だ。当事者たち、患者たちにとっては関係がない。そして、「声をかけられたからと言って額を増やすわけではなく、ツイートを変えるわけでもない」というのは、冷静に考えると、小さな復讐なのかもしれないな、という自覚はある。



なお、最初からこうやって達観できていたわけではない。当初は、「この感情」をどうしたものか持て余した。単純に腹が立ったのだ。何をいけしゃあしゃあと……という気持ちが確かにあった。

細部をわからなくしてツイートして発散してしまうというのはありかもしれない、と、何度もツイートを作って、「つぶやくのをやめる」。

何度かそういうことがあってから、ぼくは、何気ない日常のツイートの中にも誰かを遠回しに揶揄しているニュアンスが潜まないかどうかが気になった。胃の周囲の脂肪織がすべて燃焼しきるくらいには怒りの熱量をため込んでいたから、どうしたって何かは漏れていくだろうな、と思った。この時期、いくつものツイートについて、過剰なくらいに「つぶやくのをやめる」ことになった。



最終的にぼくの方向性を決めたのは「ぼのぼの」に出てくるダイねーちゃんであった。彼女はシマリスくんのお姉ちゃん(の大きい方)で、いつも眉毛の間にしわをよせている。ダイねーちゃんはこう言う。


許して忘れるのです。


許して忘れるのです。


難しいな。許すのが難しいし忘れるのも難しい。いがらしみきおはよくそういうタイプのセリフを編む。許せないし忘れることもできないとわかっている。でもダイねーちゃんが言うのだ。許して忘れるのです。ならそうするしかない。




その後もDMは何通もきた。ときには医療者以外からもやってくる。「いつもTwitterではお世話になっております。DMでははじめまして。このたび、本を書きました。ぜひ先生にも読んでいただきたく、一冊お送りしたいのですが、送り先をおうかがいしてもよろしいでしょうか。」お世話をした覚えはない。会話した覚えもない。本はただちにAmazonで購入して、購入完了画面をスクショして送り、「もう買いましたのでご献本は結構です。ご紹介ありがとうございました。」と、ATOKが覚えてしまった文章をなかば自動入力して返事をする。そして、読む。

これがたいていおもしろいのが、なんというか、腹が立つ。

ぼくに本を送ろうとする人はほぼすべて、「ぼくだったら楽しく読むだろう」と類推した上で連絡をとってきているのだ。本1冊は営業の値段として決して安くはない。投資する先を慎重に選ぶのは商売人の常である。裏でしんと黙って知らん顔をしている編集部の人間がいる。ぼくが読んだ本をおもしろかったとツイートすると真っ先にRTしてくるのが編集者である。そういう世界に生きている。本に責任はない。いちど、ツイートしようと思ったこともあったが結局「つぶやくのをやめる」。


なお以上のことは基本的に3年以上前に起こったことを元にアレンジして書いた。ぼくはもう、あったことをそのまま記すようなことはしない。許して忘れるための秘訣と言えば秘訣、それは、「つぶやくのをやめる」。