2022年5月20日金曜日

ホテルの一室にいる。出張中だ。壁からせり出した細くて狭いテーブル的スペースの上にPCを置くと目の前に鏡がある。自分がPCを入力しているところがちらちら見切れている。髭が伸びている。汚いものだ。目の下が真っ黒だなと思って手が一瞬止まる。でも誰もそんなところ見ていないのだからどうでもいいなと思ってまた手を動かしていく。

TweetDeckのタイムライン、「病理医」で常時検索しているタブの中に、ある未成年の芸能人が病理医になるとかならないとか言うニュースが流れ続けている。「下品だ」と感じる。こうしてまた少しTwitterが、いや、Twitterで目立つために気軽に他人の人生にいっちょかみするやり方が嫌いになる。





かつて、古いドラマの番組宣伝の一環で、病理医になりたいと中学生が発言したとき、ぼくはとてもほほえましい気分になった。しかしそれ以上に、この話題で俺たち大人が必要以上にはしゃいで盛り上がるのはあさましいと感じた。

以来、Twitterでも現実の病理学講義や講演でも、くだんの芸能人のことには一切触れていない。

学生勧誘、病理・夏の学校、「病理医に耳目を集めたいタイミング」はいくらでもあったが、そこでぼくが芸能人の話を出したことは一度もない。それは「ハラスメント」に思えた。さまざまな未来がありえる未成年の発言ひとつをずっと「利用」し続けている大人たちを汚いと思う。なぜその汚さがわからないのか? 不思議だ。



未成年を利用して勧誘しようとしている姿。



相手が芸能人なら何を言ってもいいと感じている人間のありよう。






何度目かの芸能ニュース以来、まいにち、「病理医」や「病理学」の検索結果がおおにぎわいである。そこにはある種の打算があるように思える。例の芸能人はTwitterの裏アカウントも持っているかもしれない、もし本当に将来病理医になりたいのならば、きっとTwitterやInstagramで病理のことを検索するかもしれない、それにそなえて、病理学や病理診断についてのことを置いておけば、検索でひっかけて自分のことを見つけてくれるかもしれない。

というエロい下心。




有名な人が何かの病気で亡くなると、その病気で検索する人が増えることを見越して、一部の医者は「病名で検索してひっかかるだろう記事」をTwitterに張り付ける。その一部は、「芸能ニュースをきっかけにして不安になった当事者」を救うことにもつながるだろう、すべてを否定するつもりはない。けれども中には、あきらかに、「私はその病気に遭遇したことがあるぞ、どうだ、すごいだろう」くらいの内容しか含んでいないクソみたいな自己アピール100%のブログ記事も含まれている。





目の下が真っ黒だ。手が一瞬止まる。でも、うん、そうなんだ、そういうものなんだ。そこでどうやっていくか、ぼくがどう考えていくかということなんだ。怒りを透徹させるようなより強い知性が手に入ったらいいと思ってじっと自分の痙攣する指先を眺めて落ち着きを取り戻しにかかる。うまくいかない。でも、やっていくしかないのだ。