2022年5月24日火曜日

カーテンのありがたみ

わりと身近に感染者が相次いだ。ぼく自身は、そのような人びとと接触歴があったわけではなく、旧来の濃厚接触の定義も満たさなかったので感染のリスクは低いと思った。しかし、短期間でけっこうな量の人が感染したので、念のために1週間程度の自主隔離生活をした。

自主隔離すなわち格安ホテル生活である。

幸いこの間、発熱したりノドが痛くなったりすることもなく、体調は変わらず、そのうちに周囲の感染状況も落ち着いたので、ホテル暮らしは短期間で終了とした。若いときなら「たまにはホテルもいいよね!」くらいのワクワク感があったかもしれないけれど、今回はぶっちゃけ辛かったので、周囲の感染状況が落ち着かずに延長とか、最悪自分が感染してさらに別のホテル生活とかなっていたらそうとうしんどかったろう。家に帰ったとき、久々に「自宅って最高だな」と思った。

もっとも、「どうみん割」というgo toキャンペーン的なものを使った結果、宿代はとても安かったので、それはよかった。クーポン(1泊につき2000円分!)も付いてきて、これがなんと飲食店だけではなくてコンビニで使えるので、これ幸いと三食の足しにさせていただいた。コンビニの飯で十分満足できる。ただ、ホテルに「周囲のおいしい居酒屋マップ」が置いてあったのは恨めしかった。

ホテルは相当狭かった。タオルはきれいだったが床は年期が入っていた。窓は外側に向かって開くタイプのよくあるやつで、カーテンがなく、木の板を閉めて遮光するタイプのものだった。この「カーテンなし、イチかゼロかの遮光(丸見えか、まったく見えないか)」というのが思いのほかストレスだった。安宿で布のカーテンを使わない理由は、火災対策とかクリーニングしなくて済むとか、客がロープ代わりに伝って窓から金を払わずに逃げるのを防ぐとか(?)、いくつか理由があるのだろう。

雨戸みたいな遮光しかできないと、夜、風を入れようと思って窓を開けただけで、明るい室内が外から丸見えになってしまう。普段そんなことは考えもしなかったが、「カーテン」というのは素晴らしい発明なのだと思い知った。グラデーションをかけることがだいじなのだ。もやっと区画することがだいじなのだ。全部見えるか一切見えないかの「間」にぼくはいつも救われていたのかもしれない、ということをあらためて感じた。

部屋の壁がどれだけ薄いかがわからず、最初、テレビやYouTubeの音を絞り目にしていた。でも何時になっても隣の音が一切聞こえてこないので、なんだ、壁は厚いのか、と思って、でもまあ仕事で疲れていたからさっさと寝たところ、夜中になって隣からすすり泣く声が聞こえてくる。最初はどうせ性的な声だろうと思ったのだけれど、聞こえてくる声はどう考えても嗚咽なのだ。やはりこのホテルは壁も薄かった、そして、寝る前のあの静けさは、単に宿泊者がみな息を殺していたからだったのだと気づいた。ここは宿泊者もゼロになることを強いられるタイプのホテルなのだ。隣が泣き止む前にまた寝直したら今度は朝までぐっすり寝られた。申し訳ないがぼくはメンタルが強いのである。ホテル生活中に2キロ太ってしまった。