2019年7月31日水曜日

病理の話(349) なんかあたりまえすぎて言わなくなった英語の話

医学用語は英語ばかりだ。

そして、病理診断書も、主診断の部分は英語で書かれることが多い。

このことに対し、いろいろな人から、「かっこつけてないで日本語にすればよいのでは」「日本の医者が読むレポートなんだから、日本語で書いた方が親切ではないか」などの意見が出る……。

ツイッターでも何度か、主に医学生から、「なぜ英語で書くのですか? 日本人相手に仕事しているのだから日本語でよいのでは。」と質問を受けたことがある。



ただこれは本当に、まじめに、正直に言いたいのだけれど、そこ、ぶっちゃけ、なんとも思っていない。

今でも年に1度くらい、「病理診断書の診断名は日本語でいいじゃないですか」という話をみる。

けれどもこちらとしては、「えっ、いまさら、ていうかそこ!?」と、おどろいてしまう。

もう英語でいいじゃねぇか。日本語じゃなくてもさ。

学生にそう伝えると、すごく冷たい目でみられる。「そうやって……自分が使えるからってマウントとって……」。




でもこれってマウントがどうとかいう話じゃないのだ。

たとえば自動車免許をとるときに、交通標識の意味がわからなければ免許はとれないではないか。

交通標識の下にぜんぶ日本語で注釈を入れないほうが不親切だ、と怒っても、だれもとりあってくれないだろう。

病気の用語が英語であるというのは、交通標識と同じくらいのニュアンスなのである。

そこを読めないならば免許を使ってドライブすることは許されない。






ぼくらが日々、病気とか治療について読むものは、英語ばかりだ。

なぜかというと、世界中の人々が、医学論文を英語で書いているからである。

もちろん、ぼくは英語よりも日本語のほうがはるかに得意だから、まったく同じ内容であれば日本語で書いてもらったほうが読みやすい……。

けれども、あまりに英語の文献が多いので、もはや、日本語のほうが便利だとか読みやすいとか、そういうことはどうでもよくなってくる。




たとえばがんの診療に対する最新知識を得ようと思うとき、本当に日本語の出番はない。

がんの診断も、評価も、治療する薬剤の名前も、それを臨床試験した論文も、ありとあらゆる資料が英語で書かれている。いかにぼくが日本語大好きであっても、情報を集めようと思ったら、そもそも日本語で書かれている資料がほとんどない以上、泣きながら英語を読みまくるしかない。

そして、泣きながら英語を読みまくっているうちに、英語で集めた情報のほうが日本語で集めた情報よりも多くなる瞬間がくる。ひっくりかえる。

するともう日本語を使う意味がなくなってしまう。





……日本語の文献には日本語のよさがあって、狭い日本という国に特有の事情を加味した文章が、それこそ文学的に、あるいは微に入り細を穿つ表現で記載されていたりする。日本人にとっては、やはり読んで安心するし、同じ日本人が丁寧に説明してくれる文章を学ぶことに喜びを感じることもある。

けれども日本語の資料は結局、英語のエビデンスから何か月か、へたをすると何年か遅れていることも多い。だからやっぱり、英語の資料にきちんと当たっていかないと、世の中の最前線でもまれているデータを参照することができなくなってしまうのである。




というわけでぼくもまた、ほかの病理医と同じように、病理診断書の主診断文は英語で書く。

ただし、主診断文よりもはるかに長い、「所見文」と呼ばれる解説の文章を、わかりやすい日本語で書く。これで今まで読みづらいと怒られたことは、幸い(?)、一度もない。

2019年7月30日火曜日

カネサビルには行かなかった

剣道部時代の先輩たちと飲んだ、うち数人は20年以上会っていなかったのでとても懐かしく、うれしかった。

ぼくらが所属していた医学部剣道部は、全学剣道部(本来の北海道大学剣道部)よりも少し遅い時間から練習がはじまる。医学部は授業が多く、実習もあるので、ほかの学部と同じ時間で練習をはじめようと思ってもできない。さらに医学部生には独自の大会も存在する。だから別枠だったのだ。

医学部剣道部とはいっても、所属している人たちは医学部とは限らなかった。ゼミが遅くなりがちな他学部の学生や、近隣の別の大学から修行にくる学生などは、遅い時間に練習しているぼくらの部活を好んだ。

逆に、医学部生であっても、なんとか授業をサボ……うまく調整して、全学剣道部の練習に参加しようとする人間もいた。全学剣道部のほうが部員の体力が少し高く、練習メニューも違うので、両方に顔を出して強くなろうとする医学部生も少数だがいた。

必ずしも医学部生のほうが剣道が弱いわけではないというのがまたおもしろいところだった。



こないだ会った先輩たちはみな「医学部剣道部」の人たちだったのだが、実はこの部活は、ぼくが大学を卒業した後、数年してなくなってしまった。全学剣道部と統合してしまったのだ。事情はよく知らないのだが、ある年を境に急に剣道部が吸収合併されてしまったため、ぼくらはOB会などを結成する間もなくちりぢりになってしまった。

今回先輩と会えたのは、ほそぼそと連絡をとりあっていた少数のメンバーたちが、Facebookなどを使って再結集したからだ。ひとむかし前だったらそのまま離散して、再び会うことは極めて難しかったろう。SNS時代に感謝するほかない。



あらためて先輩たちと会って酒を飲んで思ったのだが、どうやらぼくのしゃべり方の大部分は、18歳、19歳のころに大学で出会った先輩たちにかなり影響を受けているということだった。とても意外だった。

目の前にぼくがいるのだ。それも、一部分ずつ。

先輩たちはみな、完全にぼくとは違うしゃべり方、ぼくとは違う性格、ぼくとは違うポジション、ぼくとは違う人生。会話は尽きず、ぼくはゲラゲラ笑いながら、ときおり、「今の瞬間をぼくはマネしていたのか」「今のしぐさをぼくはパクっていたのか」と、ひそかに驚いていた。




ぼくは飲み会の最中、基本的にはリアクションだけをしながら、無口であった。ぼくが無口なのに飲み会はぼくがいつも経験しているような、ぼくがよくしゃべるときの雰囲気をまとっていた。

ああ、そうか、ぼくは、これをやりたかったんだ。ひとりで。

そう思えた。帰りの地下鉄に乗りながらぼくは20年前のあれこれをゆっくりと思い出し、気づいたら降りるはずだった駅とはまったく違う駅で降りていた。心ここにあらずだな、と思った。心はあのころにあった。そういえば学生時代、強くもない酒を飲んだ翌朝、始発で自宅に帰ろうと思って、地下鉄の中で眠ってしまい、終点で目が覚めて反対方向に乗り、またそこで眠ってしまい反対側の終着駅にいる、というのを4度ほど繰り返したことがあった。もうあんなに寝過ごすことはないな。「寝過ごせるくらいに幸せだったときのこと」をほろほろと思い出していた。それはとても幸せな時間だった。

2019年7月29日月曜日

病理の話(348) AIの役に立とう

守秘義務があるので詳しい話はしないけど、どうせいつも詳しい話なんてしてないから、いつもどおりに書けば大丈夫だろう。

ぼくは今AI開発のおてつだいをしている。

「病理AI」だ。

人間のかわりに、コンピュータがプレパラートをみて、診断をするシステム。

この開発に病理医が参入する必要なんてあんのかなーと、最初はけっこう懐疑的だった。

でも、手伝い始めてみると、意外と人間ワザが役に立つんだなってこともわかった。




病理医が開発に参加することで、AIに何をさせたいのかが明確になる。

とりあえず、患者や主治医が望んでいない検査にならないようにすべきだ。病理医が介入しない状態で病理AIを作ると、この、「誰も望んでいない形式で、圧倒的に正しいデータだけをはじきだすAI」というのが完成する。

たとえばある病理AIに、細胞を読ませると、こういう答えが返ってくる。


「このプレパラートのなかの15%くらいの面積に、80%の確率でがん、20%の確率でがんではない細胞があり、そのすぐ周りに、面積としては55%くらいの領域に、40%の確率でがん、60%の確率でがんではない細胞があります。ピコピコ。」

最後はAIっぽいかなと思って付けた。



ぶっちゃけこれだと、主治医や患者は困惑してしまう。

えっなにこれ、どういうこと、何いってるかわからないよ。

結局何パーセントの確率でがんなの。

どこががんを疑う部分で、どこが大丈夫な部分なの?





細かいことはいちいち書かないけれど、人の役に立つAIというのは一にも二にもインターフェース。ユーザーインターフェース。ぱっと使いやすい見た目、出てきた結果が応用しやすい様式になっていること。誤解をおそれずに言い切ってしまうと、「結果がどれだけ正しいかよりも、結果がどれだけ使いやすいかのほうをきっちり詰めないと、使い物にならない」。

今すでにあるAIシステムの大半はユーザーフレンドリーさが足りない。

これについては、病理医の目が役に立つかもなーということをよく考える。

ぼくらが臨床医に対して何かを説明したときに、「わからんわからん。」という目をされたときのことを詳細に思い出すのだ。

ぼくの役目は、「しくじり先生」なのである。

AIがテレビの前にすわって、ぼくの悲しい失敗談の数々を、目を輝かせてみているのだ。少しでも人の役にたつAIになろうと、大きな夢を抱きながら……。

2019年7月26日金曜日

きっと宇宙だったのだと思う

はじめて誰かに会うと喜び勇んでいっぱいしゃべってしまう。

このクセはいい加減直さないといけないなと思った。

せっかくはじめて出会う人なのだから、いっぱい話を聞きたいのに、自分ばかりしゃべって終わってしまう。もったいなさすぎる。

気付くと弾幕のように言葉を周りに張り巡らせて、未知の状況に対して防御を張り、新たな関係がそれ以上進んでいかないように、前のめりで場を塗りつぶしている。身の上話をすることで現在の自分を覆い隠すという戦術。ミノウエスキー粒子。今、また余計なことを言いました。




普段、じっと黙って働いているのがよくないのだろうか? だからいざというときに堰を切ったようにしゃべってしまうのか?

たとえばツイッターでガス抜きをすれば、少しはましになるかな。

でも、ツイッターはガス抜きとしての作用は持っていなかった。仮に、人間には”しゃべりたい欲求”というのがあるとして、ツイートをいっぱいしたところでその欲求が十全に満たされるわけではなかったのである。

雑な言い方をすると、「それはそれ、これはこれ」というやつだ。

ツイートしても、しゃべりは減らなかった。

なお悪いことに、ツイッターは、はじめて会った人もはじめてな気がしない、という、人によってはメリットなのかもしれないがぼくにとっては副作用に近い効果を有していた。つまりツイッターであらかじめ距離感を縮めることで、「初対面だけどネットでは見たことがある」という相手に対し、最初から遠慮なくしゃべることができるようになってしまい、ぼくの弾幕癖はかえって悪化してしまったのである。たとえばカツセマサヒコとは初対面のファーストコンタクトからすでにののしりあったが、それが非常に楽だったし、社会人の出会い方ではないなとしみじみ反省した。




「しゃべる方のコミュ障」については、もう、治すのは無理かなと、半ばあきらめかけていた。でも、実は最近、ついに、ようやく、対策を見つけた。

それは、なんと、noteだった。

noteで複数のマガジンをはじめて、複数の人と同時に文通をしはじめたところ、ぼくはリアルにおける言葉数がぐっと減ったのである。

はじめは、noteなんて所詮ちょっとおしゃれなブログやんけ、くらいにしか思っていなかったが、noteで文通をはじめると、ぼくはてきめんにカタルシスを得るようになった。ツイッターのリプライではあまりうまく満たされなかったぼくの心のペットボトルに、ほどよく液体が注ぎ込まれるようになったのだ。しかも、半分、定期的に。

おかげで最近は、あまり人に話しかけなくても平気です、みたいなムードが自らの皮膚の直上129.3 μmくらいに浮遊しているのが、自分でわかる。カモクスキー粒子と命名しよう。





ぼくは最近、あまり人に会いたいと思わない。人と人とが出会って楽しそうに飲み食いしながら何かをしゃべって盛り上がっている場を、遠巻きに眺めながら、もろきゅうかなにかをかじっていたい。

あるいはどこか地の果てにある無人駅のホームにあたたかい恰好をして座って、通過していく電車の中にいる人々が談笑している様子を一瞬だけ眺めて二度と思い出せないでいたい。たまに電車が去っていくところを、スマホで写真にとってインスタにあげておしまいにしたい。




これって剣道部のときのぼくだな。20年ほど遠回りをして、ようやくかえってきたということか。

当時のぼくもまた、人に話しかけないで自分のペットボトルを満たすことができていた。

あのころも、今と似ていた。誰にも求められていないのに、ホームページビルダーで、せこせこといくつも企画を作り上げた。本の紹介。日記。海外に越していった女の子に頼んで文章を送ってもらったこともあった。

ぼくは戻ってきたのだ。自分がもっとも快適であった、あのころに。

となると、今後ぼくが何をやりたがるかも、だいたい予想はできる。

いいことと悪いこと。





ああーと声がでた。あのころ失った自分の立場と、失ったことをきっかけに手に入れた大きな関係、そしてそれをどこか他人事のように眺めて、間違いなく自分の居場所であるにも関わらず、最後まで自分はここにいてはいけないのではないかと遠慮がちだった、20代のころの自分の脳を、思い出した。

あのころ、粒子も何もなく、ただ、しーんと音のする静寂だけが広がっていた。

2019年7月25日木曜日

病理の話(347) 名前なんて些細な問題だと言い切れるだろうか

今日は別におもしろくもなんともない話をしますので、はなくそでもほじりながらつまんなそうに読んでください。なお、つまんなさすぎる話なので、一行書くごとに、しりとりをします。




日本ではがんと診断され、アメリカではがんと診断されない病気、というのがある。 しりとり

たとえば大腸のポリープの中に、そういう病気がたまに混じっている。 りんご

日本とアメリカでは、がんの診断基準が違うから起こることだ。 ゴリラ




日本では、細胞の「異型(正常にみられる細胞からどれだけかけ離れているか)」が強ければ、その細胞が周りにしみこんでいようが、しみこんでいなかろうが、がんと診断する。 ラッパ

ところが、アメリカでは、細胞がどれだけ悪性っぽかろうとも、その細胞が実際に周りにしみこんでいなければ、「まだがんとは呼べない」という判断をする。 パンツ

これを例えていうならば、日本では拳銃を持っていれば犯罪者と認定する。ツンデレ

でも、アメリカでは、拳銃を持っただけでは逮捕されず、その拳銃を発砲してはじめて逮捕となる。レモン あっ




日本とアメリカ、どっちが正しいかな? ンジャメナ

実はこの話には、正解がない。 なめろう

これは立場の問題だからだ。 宇都宮




拳銃を持っているだけで、人を殺める能力があり、危ないやつだと認定して、早めに犯罪者扱いするのが日本。 ヤンバルクイナ

拳銃を打つまでは犯罪者ではない、と判断して、拳銃を持っている段階ではまだ犯罪者と呼ばないのがアメリカ。 夏休み

このような判断の違いがあれば、当然、対処法も変わってきそうである。 ミルク

……ところが、同じ病変をがんと呼ぶか、がんと呼ばないかの違いはあれど、実は対処法が変わらないのである。 九十九里浜

なんと日本でもアメリカでも、ある一定以上のサイズになった大腸ポリープは、原則的に大腸カメラによってぷちっととってしまおう、というのが、2019年時点でほぼほぼ認められている、共通の治療方針なのである。 町おこし

??? しおから

じゃ、なんで、名前をちゃんと統一しないの? ラグビーボール





洋の東西を問わず、病気にどのような名前を付けるかということは本質的ではない。 ルール

日本では大腸粘膜内がん、アメリカではディスプラジアと呼ばれている病変、これらは実際には同じものだと、日本人も、アメリカ人も知っているのだから、治療方針だってやっぱり同じになってくる。 またルかよ、ルーレット

だから、名前なんてぶっちゃけどうでもいいのだ。 とうきび

大事なのは、病気の本質を医者がきちんと学術的に理解していること。 美術室

そして、名前はどうあれ、対処法について、世界中の科学者たちが取り組んだ結果をもとに、きちんと信頼できる方針を定めていること。 ツンデレ あっ





はーつまんね。一人でしりとりするのつまんないよ。おまけに2回も負けちゃった。自分に。




今日のブログで大事なことは、文末の一単語ではなく、文章本体のほうだ。きちんと連ねて、丁寧に、言いたいことを書いたつもりである。たとえ話まで使って。

けれども人間ふしぎなもので、どれだけきちんとした文章を話していても、ときに、「単語のほうにばかり」気を取られてしまうものなのである。

「がん」という言葉はそれくらい力が強い。名前は本質的ではない、と書いたけれど、実際にはぼくらのほとんどが、「名前」に振り回されて毎日を過ごしているということを、ぼくら病理医は、もう少し真剣に考えた方がいいのかもしれない。

2019年7月24日水曜日

Suicaくらいは持っておけ

どことは言わないが旅行に来た。

久々に仕事ではない理由で空港に来た。必要以上にゆるんでいる。目の前で搭乗がはじまっているのに気づかず本を読み進めていた。はっと顔をあげたらもうほとんどの人がゲートをとおりすぎ、地上係員がちらちらとお互いを見ながらなにやら確認しているところが目に映った。

読んでいた本はあまりおもしろくなかったのでタイトルは書かない。殺人事件の犯人を元剣道部という設定で無敵にするのは陳腐だよな、と思った(たとえばなし)。

飛行機の中では別の新書を読んだ。つまらない。半分くらい読んであきらめた。スマホに入っているKindleでも読もうかと思ったが、電源を落としてそのまま目を閉じた。

昔はよく、機内オーディオで落語を聞いたっけな。シートポケットにイヤホンを探したけれど入っていなかった。そういえば今は、イヤホンは客室乗務員から受け取らなければいけないのだった。

このままのペースだと昼飯を食いそびれるな。

機内でもらったスープがどうやら昼食になってしまうようだ。今日はいろいろと、ずれている。



解剖当番にあたっていない休日を見つけて、直前になって航空券を確保した。かなり高かった。株主になればもう少し安く、変更可能なチケットがとれるのだという。株なんて買ったことがない。

まだ書くべき原稿は残っている。読むべき本もある。行かなければいけないところ、会わなければならない人、聞かなければいけない音、食べるべき味、語るべきエピソードがある。

そういうのを、いったん脇に置く。

ただそれだけで、口内炎が治る。



出掛けたさきは暑くも寒くもなかった。

来てきた服はユニクロだ。

靴だけは二足もってきた!

雨が降っても、思う存分歩いて濡らせるように。

明日、帰りの飛行機に、かわいた靴下で乗るために。

飛行機の時刻も持ってくるべき本も間違えるけれど、靴だけは間違わない。

履くべきものを履いていればなんとかなる。

替えの靴だけは忘れるな、あとはとりあえず、忘れていい。





2019年7月23日火曜日

病理の話(346) 理想の検査と医者のしごと

何度か書いた話だけどぼくが好きな話だからまた書きます。




99パーセントの確率で、病気かそうじゃないかを判定してくれる検査ってのがあるんです、すごいでしょう。

えっ、そんなすごい検査があるんですか!  でもお高いんでしょう?

いえ、安いですね。健康保険入ってれば数百円かな。

まじで?

おまけに、血液検査のときに、ついでにやっといてくれます。

えっ、それってすごいですね! だったら、健康診断で採血するときに、その検査も必ずやってくれればいいのに!

いやー、だめなんですよ。だって、その検査が陽性でも、ほんとに病気である確率、めちゃくちゃ低いんで……。

は?  99パーセントの確率なんじゃないの??





こういうことが医療の世界では実際にある。おおげさではない。よくある。

99パーセントの確率で当たる検査、という言葉にはマジで気を付けなければならない。

これは実際の数字を使って説明するとすぐわかるのだが、なんだかきつねにつままれたような気分になると思う。

だからゆっくり読んでみて。





まず、日本にだいたい一億人の人がいます。

100000000人。

で、ちょっとだけ珍しい病気があります。一億人のうち、そうだな一万人くらいはその病気「A」にかかってます。

10000人。

一億人の中の一万人。いちおく分のいちまんイコール、一万人にひとりが「A」にかかるってことです。

罹病率0.01パーセント。

今、日本には、

99990000人の「Aじゃないひと」と、

10000人の「Aにかかったひと」がいます。




ある検査の正解率は99パーセント。つまり、1パーセントは間違った結果が出ます。

これを、国民一億人全員に実施しましょう。

10000人の「A」のうち、9900人が検査で「Aだよ!」と出ます(99パーセント正解)。

99990000人の「Aじゃない」のうち、999900人が「Aだよ!」と出ます(1パーセント不正解)。



ここ、大丈夫?

わかる?

99パーセント正解、つまり1パーセントは間違うのね。



すると、国民一億人に検査して、「Aだよ!」って結果が返ってきた人のうちわけは?

ほんとにAという病気の人9900人と、実はAじゃないけどAだよって間違えられちゃった999900人。



……ということはこの検査で「Aだよ!」って結果が出たひとの大半は、「Aじゃない」んですよ。





えー?

なにそれ?





あのね、もともとかかってる人が少ない病気の検査を、全員にやってしまうと、たとえ「1パーセントの誤診」であっても無視できなくなるんだよね。

というか、無視できないというか、おもいっきりミスが増えちゃう。

だからなんでもかんでも検査すればいいってわけじゃないんです。





そしたらどうすればいいと思う?

たとえば、検査を国民全員にやるんじゃなくて、最初から「Aである可能性が高い集団」にだけやるといいんです。




たとえば東京都台東区駒形バンダイの玩具第三部に勤めている職員が2000人いるとします。

この職員2000人のうち、1000人は、「ファミコン版聖闘士星矢をみると気絶する病気A」にかかっています。

さいしょっから、Aである確率がめっちゃ高い。二人に一人は気絶する。

ここでさっきの検査をやろう!

「Aである」1000人中、990人は検査陽性(正解率99パーセント)。

「Aでない」1000人中、10人が検査陽性(誤診率1パーセント)。

ほら、今度は、「検査陽性」という結果がかなり信用できる。




医者は検査するまえに、その病気である確率が高いかどうかを、あらかじめしぼりこんでおくべきなんですよ。




とうきょうとたいとうくこまがたばんだいのがんぐだいさんぶのほし、知ってる人、減ってきたな。