2018年11月19日月曜日

併託恣意

釧路の出張先から空港までタクシーに乗って移動する。外は雨。だいたい30分弱かかる。今日の運転手さんはとても寡黙だ。偏見を申し上げるならば、個人タクシーの運転手さんはにぎやかな人が多いように思っていた。今回は静かでとても落ち着く。信号でランダムな雨音と定期的なワイパーと忙しそうなウインカーの音が全て聞こえてぜいたくである。

このルート、いつもなぜかポケットWi-Fiの電波がよろしくない。スマホの電波はきちんとLTEなのに不思議だ。結局ポケットWi-Fiをあきらめるしかないのだが、Wi-Fiがない環境でスマホをいじっているとギガがどんどん減って精神によろしくない。毎月月末には1GB以上余しているのだから、本来はそれほど気にしなくていいはずなのだが。

電車や飛行機で移動する際にはギガを使わず(あるいは使えず)に電子書籍や持参した本を読む。でもタクシーの後部座席だけはなぜか酔ってしまう。というわけでギガも使えず本も読めない。運転手の斜め後ろからの顔が精悍だ。雨はますます強まっている。手持ち無沙汰で音とあそんでいたぼくは、ふと燃え殻さんのことを思い出した。

彼は「ボクたちはみんな大人になれなかった」をスマホで書き上げたのだという。たしかにいまどきの大学生はレポートをスマホで書くというが、彼はぼくより年上だ。愕然としてしまった。あの名作を、スマホで?

今こうして、酔いに抵抗しながらスマホで文章を書いていてはっきりわかるのは、フリックのめんどくささ、スマホ搭載辞書の中途半端さ、そして、「自分が冒頭に何を書いたかふりかえるのに不便な視野の狭さ」。アロウズはいいスマホだがやはりバッテリーはクソなので左手がじんわりと熱くなっていく。

バッテリーはともかく、自分が書いた言葉を自分で食って先に進むような、自転車操業感はいかんともし難い。目の前にしかエサが出現しないパックマン。文章がどのように進み、どのように着地するのかがまったくわからなくなる。

なぜこれであんなに統一感のある素晴らしい小説が書けるものなのか。メカニズムがわかならさすぎて呆然としてしまう。

あるいは、「書きながら考えるタイプの人」は、そもそも、頭の中に、書きながら参照できるだけの広大で猥雑な香港とか台湾の街並みみたいな風景があるのではないか。

だから、スマホの画面のように今の文章とその周囲しか見えないダンジョン的執筆であっても、すでにじぶんのなかにある脳内のありようを裏切ることなく表現が整ったまま夏色の自転車のように坂道を滑り降りていく。

となると世界観に問題のあるぼくはスマホで物を書いてはいけないのではないか。タクシーが空港に到着しそうだ。ぼくの中には毎日違う町があり、自分でもどの世界観で暮らしているのかときおりわからなくなる。ブログのタイトルからして脳が定住していないのだからもうこれは仕方がないのだ。タクシーがもう着いてしまう。読み直すのがこわい。