実はそろそろエッセイの執筆を始めなければいけない。このブログ記事がのるころには、きっと書き始めているだろう。
エッセイの執筆依頼自体は1か月以上前にもらっていたのだが、なかなか本腰を入れて書き始められないでいた。理由は、「病理学の教科書」の原稿を書かなければいけなかったからだ。
ぼくは文章を依頼された順番に書いている。いつもは、複数の依頼を同時進行で進めていけるのだけれど、今回、「病理学の教科書」には、ぼくが今まで病理診断医として働いてきたことや、病理学の講義で教えてきたこと、あるいは日常的に医学に対して考えてきたことなどをすべて叩き込みたかったので、とりあえず他の依頼を後回しにした。
没頭したのだ。
おかげで病理の教科書は2か月ほどで書き上がった。単著の書き下ろしである。やれやれだ。
でも、もちろん、ここからがさらに長くかかる。編集者が全編を読み込み、デザイナーやイラストレーター諸氏に協力をあおぎながら、なんども内容をいじっていく。校正だって何度もしなければならないだろう。
けれども、少なくともぼくにとって一番大変な最初の山は超えた。ゲラができあがるまでの間は、むしろ、原稿の内容は忘れてしまったほうがいい。
そうまでして没頭したぼくだったが、実はこのブログに書いている「病理の話」をどうするかということには多少頭を悩ませた。
一方で病理学の原稿を書きながら、もう一箇所で病理の話かあ……。
書けるかなあ……。
もしかしたら、書けなくなっちゃうかもしれないなあ……。
同じ事を書くわけにもいかないしなあ……。
でもやってみたら造作もないことだった。結局この2か月のあいだ、ぼくはブログの記事については特に思い悩むこともなく、いつものように早朝や夕方に時間を見つけてバコバコとキーボードを叩き、毎回、公開する1週間前には予約投稿を終えていた。
この経験を通してわかったことがある。
「病理の話」というのは、きわめて題材が多く、まず書くことに困らない。
なぜかというと、病理学というのは実は医学と大して変わらないくらい広い世界を扱っているからだ。
……いや、包含関係というものがあるだろう。
「医学」⊃「病理学」だぞ
医学の中に病理学があるんだ。
病理が医学と同じくらい広いってことはないんじゃないか。
そうやって怒られるかもしれない。けれども、実際、ぼくから見ると、病理学の世界はあまりに広すぎて、医学と病理学を比較したところで、広い VS 広い、くらいにしか感じない。
この話は何度も書いたので読んだことがある人もいるかもしれないが、ぼくはかつて、高校時代に、科学をやりたかった。物理学とか、宇宙理論を学びたいと思ったのだ。そして父親に相談をした。科学をやりたいんだけれども、と。
そしたら父親はこう言ったのだ。
「科学と医学は同じくらい広いんだから医者でもよいのではないか」。
ぼくはなぜかその言葉がとても気に入り、医学部を受験することにした。
科学と医学が同じくらい広いわけはない、と怒る人もいるかもしれない。
科学⊃医学だろう、と。
しかし今はわかる、医学というのは確かにサイエンスなのだが、なんというか、医療というか、医術というか、医情というか、医界とでもいうべき、サイエンスだけではすまない何かを常にぶら下げている。
中に入ってみるとよくわかった。
たしかに、医学は、科学に含まれる。けれども、医学の広さはまるで科学ほどに広い。
そして40歳になったぼくは今、こうして、ブログに、「病理学は医学並みに広い、書くことなんてちっともなくならない」とうそぶくようになっている。
ぼくが父親に例のセリフを浴びせられたのは16歳のころだから、今から24年ほど前のことだ。
当時の父親の年齢もわかる。詳しくは書かないがまあ今のぼくとそれほど大きくは違わない。
子はやはり親に似るのだろう。となるとぼくがこうして、「病理学は医学と同じくらい広いんだぞ」と偉そうに書いているのは、基本的に、息子にあてて書いている、と考えるべきなのかもしれない。
どうでもいいけど今後、エッセイの執筆をはじめると、「病理の話」じゃないほうの、日常エッセイのほうでかなりネタに苦しむかもしれない。書いてみないとわからないが。
だって日常というものは、病理学よりもはるかに小さい可能性があるからだ。もしそうだとしたらぼくはこの先どうすればいいのだ。