「人との距離感」というのは、その人それぞれ異なる「固有値」であり、しかも「固定値」であるような気がしてきた。
ぼくは基本的に他人との距離感を遠目に設定するタイプだ。
仲良くなって何度も会って、そろそろ少し深くて込み入った話もできそうだし、前提もだいぶ共有したからいちいち背景の説明をしなくていい、話していて楽な相手だなあ、と思っても、そこからあえて「距離」を縮めようとはあまり思わない。
よっぽど長期間にわたってなんらかの形で一緒の時間を過ごしていない限り、自分から積極的に連絡をとることもしないから、他者との距離はたいてい、時間が経つにつれて開いていく。
ぼくはその「遠くなった距離」のほうが心地よい……というか、近いままの距離感を保とうとする人があまり得意ではない。
「ご無沙汰してすみません」という挨拶も苦手だ。
長く会っていない相手に会うことになったとして、もし「ご無沙汰です」からあいさつをしなければならないとしたら、それだけで会うことが面倒になってしまい、なんだかんだと理由を付けて会わなかったりもする。
一方、10年以上会っていなかった相手とばったり会った時に、そういえば君は10年前にはあの曲が好きだといっていたが、今はどんな曲が好きなんだ、みたいに、すぐ今の話にもっていけるならば、それはなんだかすてきだなと思う。感傷もあとからわいてくる。
世の中には「仲良しグループ」というものがある。
ぼくは中学校でも高校でも大学でもまずそういうグループに入れなかった。理由はなんとなくわかっていて、ぼくは、そういうグループの持つ「固有の距離」が自分には少々近すぎるように感じてしまうのだ。
話をする相手との距離がだんだん狭まっていくのはまだがまんできる。しかし、その場に第三、第四と登場人物がいて、それぞれがまだ会話もしていないうちに自分との距離をじわじわと詰めていく状況がどうにも苦手で、対処がうまくできない。
距離が近いのが「嫌い」と言っているわけではない。
「苦手」である。
できれば近さに慣れてみたいと思ったこともある。けれどだめだった。
名も知らない相手にいきなりリプライを投げつける人はきびしい。初対面で敬語が崩れていくタイプの人もどう相手して良いのかがわからない。
世の中には、距離感」を相手によって使い分けられるタイプの人がいる。見ているとなんとなくわかる。この人は遠距離戦も近距離戦も選べるなあ、と感心する。
そういう人はたいてい、人の中心で輝いており、大きな仕事を成し遂げていたりする。
ただ、そういう人のことをよくよく(遠目に)観察していると、この人は本来、近い距離は「さばけるだけで、別に好きではない」のだろうな、と感じる。
根本のところでは相手と画然とした距離を取りたい。けれども、それでは社会で関係を結び続けることはできないから、近い距離をほどよくさばく技術を身につけているのだ。
ほんとうは真ん中低めを一番得意としているホームランバッターが、内角高めを技術でポール際ぎりぎりにスタンドインさせてしまう、みたいなイメージをもっている。
ぼくはもしかするとそういう技術を持ち始めているかもしれないな、とは思う。けれどもぼくの「固有の距離」は今でも遠距離だ。近距離をさばきまくった翌日、ぼくは全身がぐったりとつかれており、なんだか妙に感傷的な写真など撮ったり、長いブログの文章を綴ったりすることが多い。今日のブログはまだ短いほうであるが。