2019年9月5日木曜日

自問自答の自をどこまで拡張するかという話

「誰に何を届けたいか」みたいな話をずっと考えていると、この短い文章の中にも、3つほど「ん?」と思うポイントが含まれていることに気づく。

・誰に

・何を

・届けたいか



まず「誰に」。

特に誰にも届けたくないけどとりあえず自分がしゃべりたいのだ、ということが、ままある。

強いて言うならば「自分に」届けたい瞬間がある。聞いてくれる相手は誰でもいいのだ。だってその人をどうこうしたくて書くわけじゃないのだから。書くことで、自分がどうにかなりたいときがある。




次に、「何を」。

実はなんでもいいのだ。書いて出して認められるという過程だけが必要なのであって、届けるべき具体的なものはぶっちゃけ何であってもかまわない。強いて言うならば「届くもの」を書ければそれに越したことはない。




そして、「届けたいのか」。

そもそも届けたくないのかもしれない。「誰に」とも、「何を」ともかぶるけれど。届けることが目的ではないことがある。





ということはだ。

「誰に、何を、届けたいのか」という疑問のことを考えると、

「自分は、なんでもいいから、書きたい」という全滅的回答が得られることになる。





自分が医者だと公言している状態で発信する情報は、世の中的には、ある種の色メガネで観察されており、

「患者(や一般の人々)に、医療や健康に関する情報を、届けてくれるはずだ」

と期待されている。そういう前提で、ぼくが内心、

「患者に届けようと思ってないし、医療情報ばかり届けるつもりもないし、というか、届け物をするつもりがない」

と思っていては、そりゃあ、伝わらないし、得るものもないだろうなあと思うのだ。





以上のような机上の空論を何度も何度も繰り返しているうちに、もう少し自分の思考を丁寧に言語化しなければいけないなと思って、もうちょっとやさしく考えてみることにした。




・誰に

・何を

・届けたいか




ぶっちゃけ世の中の誰かに何かを届けたいと思うことは少ない。ただ、自分と思考回路がちょっと似ている人であるとか、自分と同じような悩みを同じように持っている人であるとか、自分がやさしくしたいなと思っている人と、共通の話題で会話をすることは、けっこうアリなんじゃないかなと思っている。



何をきっかけにして会話をするのでもいい。ただここで語る何かが、誰かに届けようという気持ちできちんと研磨したものであるとき、受け取り手が「それ、わかりやすいね」「なるほどよくわかったよ」と言えるくらいに錬成されたものであるとき、自分が持っていたその何かは、以前よりも使い勝手がいいものに変わっているだろう。



一方的にこちらから相手に届けるようなことでなくてもいい。ただ、物事というのは、距離を詰めたり遠巻きにしたり、拡大したり俯瞰でみたりしているうちに、細部も全体も両方みえてくるものである。となると、自分の手の中で後生大事にしておくよりも、誰かにあずけてそれを外から眺めてみるとか、あるいは誰かの手から投げ返してもらうとかしたほうが、結局、自分にとっても、その場にいる「誰か」にとっても、詳しく観察された「何か」になるだろう。





以上をまとめると、ものを書こうとするときに頭の中に流れてくるお決まり疑問文、

「誰に、何を、届けたいのか。」に対する答えは、



・自分が拡張されたときに接続するかもしれない他人に、

・自分や他人が持っていて、あるいは持ち始めていて、今以上に使いやすくしておきたいものごとについて

・届けたり届けられたりを繰り返しながら何度も眺めていたい。



ということになるだろう。

であれば情報発信においてどういう姿勢をとるべきかはおのずと決まってくる。



すでに完全に自分のものとなっていて、この先扱い方を変える気がなく、それについて自ら驚いたり感動したりする気もない、自説やステータスの類いを話すことはつまらない。

一方的に自説を述べるばかりで、かえってきた反応によって自分が変わる可能性を排除していると、情報発信としてはおもしろくない。




だんだん自分が宗教対話の人みたいになっている気がする。もう少し言葉を練ってわかりやすくしたほうがいいだろう。誰のために? なんのために?