人間は経験を積むごとに、考えることが上手になっていく。
毎日サッカーボールを蹴っていれば少しずつリフティングが上手になるように。
ただ、サッカーのほうはどうか知らないけれども、思考の方には確実に、「上手になるコツ」がある。
たとえば、今医療現場で行われているいくつかの「勉強会」は、このコツを踏まえたものになっている。というかコツを外した勉強会は自然に消滅していく。出てもつまらないし役に立たなければ、人は集まらない。
毎日、患者と話し、きちんと診察をして、治療を繰り返していれば、それだけで医者は上達していくものだ。しかしたいていの医者は、心のどこかで、「それでは足りない」と思っている。
サッカーがうまくなりたい子が、ときおりサッカースクールでJリーガーのコーチを受けたいと思うように。
医者もまた、自分よりうまく診療している人間のコーチをうけたいと思う。
あるいは、自分と同じくらいのレベルの医者が体験した「レアな失敗談」とか「苦労話」を聞きたいと思う。一緒に考えてみる。
そうするときっと、自分の病院でだけ研鑽するよりも、もっと早く、うまくなれるのではないか……。
だから「勉強会」や「講習会」に出る。科にもよるが、好きな人は2週間に1回くらいのペースで出ている。
逆に、まったくそういう会に出ないタイプの科、ひたすら自分で努力を繰り返すタイプの医者もいる。けれども最近は、勉強会や講習会がなかったとしても、ウェブで動画講習があったりする。
完全に自分の経験だけで研鑽を積む医者はだいぶ減ってきている。
おもしろいなーと思うのは、そういう会で医者たちがしゃべる言葉使いだ。
お互いに先生先生と呼び合うのである。
どうみても生徒、みたいな人も先生と呼ばれる。
先生という言葉の本来の意味は完全に消失してしまっている。「ミスター」くらいの意味で「先生」を連呼する。
うける。
病院でいつも先生と呼ばせているはずの医者。
勉強熱心で尊敬できそうな、まさに「先生」タイプの人ほど、勉強会で先生先生と連呼しながら生徒をやっているものだ。
ちなみに画像系の研究会や勉強会に病理医が呼ばれるとき。そこでは病理医は文字通り「先生」扱いをうける。
ほかの医者たちが難しいと思った理由、診断を間違えそうになった理由などを、病理医が解き明かす役割を与えられるからだ。
勉強会や研究会を外からみていると、まさに、「病理医だけは真の先生」みたいに見えることがある。
これをもって、Doctor's doctorなどという生意気な二つ名がついたんだろうな。
そのように確信する。
けれども当の病理医であるぼくは……。勉強会や研究会で病理解説をするときはいつもあせだくだ。
臨床医たちがするように、お互い先生先生と呼び合ってはいるけれど。
「おれたちの勉強の足しにならないことをいってみろ、てめぇの鼻の穴から大腸カメラをいれてやるぜ」
くらいの厳しい目線に常に囲まれた状態で、病理の立場からコメントをしなければいけない。
もうみんな、先生って呼び合うのやめようぜ。
同志とかにしないか? なあ!