2019年9月13日金曜日

脳だけがここで待つ

今、書き終わって校正ゲラを待っている原稿が4つある。

看護学生向けの教科書、消化管病理の教科書、肝臓画像・病理対比の教科書、そして新書。

いずれも書いている間はどっぷり暗黒だった。はぐきがはれたり口内炎が5000個できたりした。時間の流れは一方向ではないのだなと思った。金曜日のあとに木曜日がきて、その次に水曜日がきて火曜日がきて、月曜日がやってきてまた火曜日に向かう。いつまでもいつまでも平日が続いていく。冷静に振り返って、もうああいう執筆には戻りたくないなと思う。

けれども、書き終わってしまった今、ぶっちゃけ、てもちぶさただ。





やるべき仕事はある。そもそも診断がたっぷりある。

書かなければいけない論文もある。誰に頼まれたわけでもないけれどぼく自身が書きたいものがある。

もう少しすると毎週どこかで講演をする。秋の出張がはじまる。

学会での発表や病理解説の仕事もいろいろある。今年はe-learningの収録とかもする。

だからもう本を書いている場合ではない。

それでも今、てもちぶさただなーと感じる。





ほんとはこの感情は「てもちぶさた」ではないのだとも思う。

依頼されて本にできるような内容が、ぼくの中に、もうない。

それがわかるのだ。手に書くものがないのではない。脳に書けそうなものが見つからないのである。

のうもちぶさた。







自分の持っているなにかを、本にして、書店に置いてくれただけで、これはもう果報者以外のなにものでもない。

亡くなった祖母の位牌にすべての本を供えている

ほこらしいし、ありがたい。

カタチになってしまった本をみる。自分の脳のバックアップをとって、外付けメモリの中に入れたような気分だ。

だからもう、脳に入っている情報は消去してしまってもいい。

本に書いた部分を順番に消去していく。するとどんどんスキマが空いていく。

これが「のうもちぶさた」という感情の正体だと思う。

今ぼくの手元……脳元……に、ものがないことを、ぼくは、さみしく歯がゆく思っている。





身軽ではある。