2019年9月3日火曜日

和が師のwon

すごく頭のいい病理医たちが講演するのを聴いた。会場で静かに興奮していたら、質疑応答で座長から指名されて、質問させられた。しかも2名の講演で、2名の座長から。

ぼくのことは、そんなに当てやすいのか。

SNSとは縁のなさそうな座長なのに、ぼくをまるでツイッターのようにいじり、無茶振りをする。

なぜだ。

つまりぼくはもはやそういうキャラなんだな、SNSがなくても。




もしツイッターがなかったらみたいな思考ゲームをあちこちでみるのだけれど、「SNSがなかったら」みたいな雑な仮定はちょっと現実感がなさすぎるのでやめる。

たとえばツイッターがもうちょっとだけ違うなにかであったなら、どうなっていたのだろうか。

ツイッター社の企業理念が微妙にずれていたら。コアターゲットが違っていたら。あるいはURLが一部ちがうとかアイコンの鳥がかわりに豚であるとか、そういう微妙な違いがあったら。

きっとぼくの周りに起こってきたことが今とまるで違ってしまっただろうし、おそらくぼくはそのパラレルワールドに気づくことすらなかったに違いない。

今ぼくがこういうキャラでこういうことをやっていることにも、やっていないことにも、SNS、あるいはそれ以外の複合的なつながりが薄く弱く影響している。

座右の銘、恩師、記憶に残るできごと、みたいなものが嘘臭く感じられる現代、ぼくを含めた多くの人々は、瞬間的に通りすぎた単語の一部をとりいれて代謝して栄養にし、日替わりの師匠に薫陶を受け、記憶というブラックボックスからのアウトプットだけを享受している。




だからこそ、だろうか。

極めて頭のよい病理医たちが、いずれも、心に抱えた大事なことばを持っていることに、ぼくは脱帽した。自分が複雑系であることを十分に理解してなお、「恩」を明確に言語化してわれわれに伝えてくる先達は、尊いなと思った。