2019年9月17日火曜日

病理の話(365) カレーの恩返し的主観

「病理医によって、病理診断の文面がかわる」ということがある。

なんだ、病理医のくだす診断ってのは、「主観」かよ。「胸先三寸」かよ。

そうやっていやがる人もいる。人が変わったら診断が変わるなんてとんでもない、とばかりに。

でも、ぼくからすると、そもそも体調不良とか病気というものは極めて主観的なものであり、病なんて主観のかたまりなんだから、これを相手にする医者が客観だけで何かを語ろうとすることのほうが不誠実なのでは? と反論したくもなる。






胃カメラで胃をのぞいていた内科医が、不安そうな患者の横でモニタに目をこらす。

胃粘膜に、ぼんやりと、5mm程度の、赤みがやや強い部分が目に付いた。

(うーん。

胃炎かなあ……。でも、かたちが少しきたないなあ。

形状がぎざぎざしている。

普通、胃炎だったら、まわりにも同じような「赤み」がぽつぽつと見えてきていいのに、今回はこの1箇所だけおかしい。

となると、もしかすると、ごく早期のがんかもしれないなあ。)

なんてことを考えている。

内科医は、ここで、できるだけ客観的に診断しようと試みている。

病変の色調や形状、大きさ、分布など。

誰がみても納得できるような「客観的な言葉」をなるべく使う。

でも。

内科医が患者に胃カメラを飲ませるという判断は、客観的事実だけではなされない。「よし、飲ませよう」と決断するときには必ず主観が入る。

もっといえば、患者がその病院で胃カメラを受けるに到った理由。ここにも大量の主観が入り交じる。

胃もたれを感じた。いつもと違うかなと不安になった。知り合いが胃がんだと言われて自分もしらべてみようと思った。

医療というのは主観まみれだ。




主観と客観の末に、内科医は胃カメラのさきっぽで胃粘膜をつまみとる。

小指の爪を切ったときのカケラよりも小さいくらいの、ほんのひとかけ。

これを病理検査室に出す。細胞をみてくれ、と頼む。




そこで診断を書く病理医が、

「Group 1(がんはない)」。

あるいは、

「Group 5(がん)」。

と、極めて客観的な答えを出して終わりにするかどうか。




まあ仕事としてはGroup 1と書けばそれで十分なのだ。最低限求められた仕事としてはこれで事足りる。

しかし、中には、診断に「患者や内科医の主観をフォローするための、主観」をまぎれこませる病理医もいるのだ。

それは決して、事実をねじまげるという意味ではないので気を付けて欲しい。

たとえばこうだ。




「Group 1. がんではなく良性の胃粘膜です。
 背景にピロリ菌がいます。胃粘膜はピロリ菌の存在によって、炎症をうけて荒廃しています。ピロリ菌感染に伴う胃炎と考えます。なお、場所が前庭部(胃の中にも住所がある。前庭部というのはわりと十二指腸側)なので、ぜん動運動による刺激が加わって、発赤部の周囲が軽度隆起して目立った可能性があります。」

この長ったらしい文章は、実は病理医の職務としては本来必要なものではない。病理医はあくまで、「がんか、がんでないか」を判断すれば給料分の働きとしては許される。しかし、「なぜ内科医がこの病変を病理に出そうと思ったのか」に思いを馳せて、そこをフォローしようとしている。これを読んだ内科医が、患者にどういう顔で説明をして、患者がそれをどういう顔で聞くだろうか、ということを想像して、文章を主観的に足しているのだ。






「病理医によって、病理診断の文面がかわる」ということがある。

なんだ、病理医のくだす診断ってのは、「主観」かよ。「胸先三寸」かよ。

いや、それは、言葉がたりないと思う。

病理医が診断文に主観を入れるのは、カレーにスパイスを足すようなものだ。あくまでカレーはカレー。ライスはライス。そこはいじらない。しっかりと作る部分は作る。

しかし、それを味わう人に、「ぼくが作るからにはもう一手間かけて、さらにおいしくしてやるぜ」という心意気をもって接し、味変用のスパイスを足す。これこそが、病理医がときに用いる「主観」だ。