一部の職業人は、「この知識があるから給料がもらえる」という強みみたいなものを持っている場合がある。
医者もそう思われていて、「医学知識がある」というのがメシのタネであり、プライドでもある。
「医学知識」というのがウリである。
「医学知識」というのがコンテンツである。
ただ、実際に医者が給料をもらっている理由は、コンテンツの特異性とはあまり関係がない気もする。
ある瞬間に、知識がなくても、さびついていても、パッと出てこなくても。
「必要な資格を持った上で、あるイスに座って、時間を割いて他人と会話していること」
「必要な資格を持った上で、ある手術場に立って、電気メスをもち手を動かしていること」
こっちのほうが、より具体的に給料が発生する理由であったりする。
特異性のあるコンテンツは、その場にいる資格を得るためには絶対必要だ。
ただ、
「コンテンツを持った状態で、ある勤務地にたどり着いた流れ」と、「その勤務場所にいてくれること」のほうが、実務の大半を占めていたりする。
外科医が会議中にえんえんと、院内サンダルに結んだ糸を使って、糸を結ぶ練習をしているシーンをみる。外科医は切る仕事だと思われがちだが実際には縫う仕事であり、結ぶ仕事だ。だって、血管を切ったら結ぶか焼くかしないと、血が出て死んでしまうだろう? だから外科医は必ず「結び方」の練習をする。毎日毎日……。
で、この、「糸の結び方」は、高学歴と何か関係があるか?
医学部6年間で磨いた医学知識と関係しているか?
ぶっちゃけまったく関係していない。糸を結ぶことに関しては医学知識というコンテンツは何の意味も持たない。
医療現場における多くの手技はこれといっしょだ。
注射。麻酔。脱臼の整復。デブリードマン。
知識がないよりはあったほうがいいが、それよりも、繰り返し体にしみこませた「手技」こそが必要とされる。
これらの、いかにも「医者然」とした行動の大半は、医学知識という「医者しか持っていないコンテンツ」とはあまり関係がない。
しかし、医者がやらないといけないのだ。なぜかというと医者は、知識というコンテンツをもってその場にたどり着いた文脈(コンテキスト)を持っているから。
持たなければいけないものを持って、その場にたどりついたこと自体が人々に安心と信頼を与えるのだから。
で、まあ、ぼくは最近よく考えるのだけれど、医者が自らを恃む「コンテンツ」をしばしば文章にして世に発信するとき……。
「コンテンツ」をぼくらは誇りに思っているし、ほかの誰もが持ち得ない大事な強みだと知ってはいるけれど……。
「コンテンツ」を持ちながら実際、「コンテキスト」でたどり着いた医療現場で、ぼくらは日々、わりと手技に邁進していて、あんまり「コンテンツ」を使い切ってはいないんだよね……。
ぼくらは、ほんとにその「コンテンツ」、さくっと語れる?
ぼくらはその「コンテンツ」、わりと誇りに思っているけれど、実際、きちんと言語化して、毎日使う武器として育て上げている?
「コンテンツ」を文章にして語ろうと思ったら、世に語って受け入れてもらえるだけの「コンテキスト」を別に作っておかないと、あまり届かないのではないかなあ。
「コンテンツがあるからニーズがあるだろ」というのは、ちょっと、暴論なのではないのかなあ。