2019年9月24日火曜日

病理の話(367) 意中だけではなく意外までみる

医者が患者を前にして、顔に手をそえて下まぶたをキュッとおさえて、まぶたの裏が白くなっていないか、白目が黄ばんでいないかと診察をする。両手首をにぎって脈をとり、同時に手のあたたかさや汗のかきかた、肌の水分量などを把握する。前から聴診器をあてて心臓や肺前面の音を、背中から聴診器を当てて肺の後ろ側の音を聞く。



こうした診察は「アナログ」だ。腕の差が出る。そして、ちょっと抽象的なことをいうと、「見ようと思っていないものも、見る」やり方である。




ぼくは最初の数行で、目を診察する際に

 ・まぶたの裏が白くなっていないか
 ・白目が黄ばんでいないか

という2つの項目を書いた。しかし実際には、白目に充血がないかどうかも「なんとなく見ている」し、眼球が細かく震えていないかもみるし、顔をさわったときの感触からも様々な情報をとる。高血圧や糖尿病の雰囲気が、目から「なんとなく伝わってくる」こともあるそうだ(ぼくは目の診察をしないのでそのへんはよくわからないけれど)。

つまり「雰囲気」をざっくりと見ている。見ようと思わなくても目に飛び込んでくるものがあり、医者はそういうものを知らず知らずのうちにまとめて把握する。




疲れて帰宅してマンションのドアにカギを差し込もうとしたらなんだかうまく回らない。もしや、と思ってドアノブを引くとなんと空いている。カギを閉め忘れたか? あるいは合鍵か……?

ぼくは中に人がいるのではないかと怯える。そうっと音をたてずにドアをあけて、いつでも警察を呼べるようにスマホを手に持ち、そろりそろりと、

「部屋の中に誰かいないかどうか」

を確かめに歩を進める。

そして、部屋の中に入ると、そこに、なんと……

橋本環奈!

わあ! まさか!

なぜここに橋本環奈!!!




シチュエーションとしてはあり得ないが、この反応は人間としてごく当然の、ありふれたものだ。

部屋に入る前には、中にいるのは包丁を持った中年男性か、ほっかむりをした中年男性か、あるいは拳銃を両手にもった中年男性か、とにかく中年男性をイメージして、それも暴力的な、反社会的な雰囲気をまとった中年男性をイメージして、「そういうおっさんがいないかどうか」を確かめるために、慎重に中をのぞきこむ。

「おっさんがいるかも!」

しかしそこにいたのがテヘペロ感あふれた橋本環奈だったからといって、私たちの目が「今はおっさんを探していました。」とばかりに、橋本環奈を見落とすということはあり得ない。

「何かを目指して見に行って、たとえ違うモノが見えても、その瞬間に対応する」のが脳である。

これは地味にすごいことだと思う。




医者の診察もいっしょなのだ。貧血を探るために目の診察をしたからといって、そこで黄疸を見逃すことはないし、あってはいけない。

アナログな診察というのは、得られる情報が思った以上に多い。

あれとこれを見るための診察です、と言いながら、実際にはその数倍、いや、数十倍以上の情報を、無意識のうちに集める。

以上は、ほとんどの医療者が知っていることだ。

「診断ってのはさ、試験勉強みたいにアレとコレだけ覚えときゃできるってもんじゃないんだ、もっと全体の雰囲気とかをちゃんと見なきゃいけないんだよなー」。




ところが話が病理診断に及ぶと、どうも話が単純化されてしまう。

「病理ってのはあれだろ、細胞をみてさ、がんか、がんじゃないかを見るんだろ」。

まあそうなんだけどさ。

ぼくらが顕微鏡で、あくまでアナログに、細胞をみているとき、そこから得られる情報は、もう少し多い。

おっさんを探しに行くと橋本環奈、ということも、顕微鏡の世界にはある。

美輪明宏のこともあるし、マツコ・デラックスのこともあるし、安田顕(onさん)のこともある。

おっさんだけ見てるわけではない。





橋本環奈の無駄遣い、という非難の声が聞こえてくるようだ。