しかし、ネットというのはおもしろいもので、面と向かっていないからだろうか、リプライならもらうことがある。「5時には帰れる仕事のくせに偉そうに」。まったくこの通りに言われたことがある。
へえ、こうやって言う人って、ほんとにいたんだ、都市伝説ではなかったのか。とても驚いた。
まあ、勤務時間について「いや待て、ほんとはもっと忙しいんだぞ」と反論するのも子供っぽいし、「そうだよ、それがなにか」と開き直るのも大人のやることではない。だから、今日は、「時間」ではなく「時刻」の話をしてみようと思う。
病理医は、プレパラートを見るとき、
「朝の方が良く見えて、夜の方が悪く見える」
という。
細胞が良く見えるというのは、視界が良好であるとか、隅々まで見渡せるという意味ではない。「良性よりに見えてしまう」ということ。
逆に、悪く見えるというのは、細胞の良悪を判定するときに、「悪い方」、すなわちがんに見えてしまう、ということ。
大変なことだ。
病理医が細胞の良し悪しを決めるのは、仕事の中でも一番大切な、一番ぶれてはいけないことのはずだ。
体の中から採ってきた細胞が、良性なのか、悪性なのかによって、患者さんの人生も、周りの医療者がこれからやることも、まるで違う。そこを白黒はっきりさせるのが病理医の大事な仕事のはずではないか。
それが、「朝と夜とで、見え方が違う」とは、どういうことなのだ。
ちなみに、ぼくだけがこう思っているのではない。複数の病理医が、全く同じことを言う。北海道から沖縄まで、日本人であればだいたい同じことを言う。さらにはアメリカ、香港など様々な国の病理医にも聞いてみたが、やはり結果は同じだった。
……すみません、香港の人には聞きましたがアメリカの人には聞いてませんでした。盛りました。けどまあ、言うだろう。
光学顕微鏡というのは、機械の下の方に光源があり、プレパラートを下から照らして観察する仕組みになっている。子供の雑誌の付録についてくるような安価な顕微鏡だと、太陽光を反射させる鏡がついていて、反射光でプレパラートを見ることもあるが、プロが使う顕微鏡には太陽光なんぞ必要ない。外界が明るかろうが暗かろうが、検体の見栄えにはあまり影響しない。
……と、思われがちなのだが……。実際には、部屋が明るいか暗いかで、如実に見え方が変わる。
なんなんだろうねあれは。錯覚なのかな。それとも、実際に光量が微妙に違うせいなのかな。あるいは、朝は元気で、夜は疲れている、すなわち眼精疲労のせいで見え方が変わるのかもしれない。けど、やっぱり、部屋の明るさが一番効いている気がする。詳しい理由は、きっと「仕事場の明るさと目に与える影響」みたいなのを研究している人に聞いてみればわかるんじゃないかなあと思う。
原因はともかくとして、全く同じプレパラートを見ても、周囲がより暗い夜の方が、検体の色が濃く、細胞核が少しだけダークに感じられる。
微妙な違いだ。しかし、病理医にとっては、そこそこ大きな違いなのだ。
こんな、病理医の主観で診断をころころ変えられたのでは、患者も臨床医もたまったものではない。
だから、(以前にも書いたけど、)病理医は自分の診断をとことん文章化し、理論的に説明できるようにする。なんとなく悪そうに見えた、なんとなく核が濃く見えた、のような、「なんとなく」を診断のヒントとして採用しないようにする。多少核が濃く見えようが、周囲にある正常細胞と丁寧に比較をしたり、色合い以外の情報をきちんと総合することで、結局は精度の高い診断を成し遂げる。
けど、まあ、精度の高い診断をすると言っても、人間だ。なるべく間違いの芽は摘み取っておきたい。
だから。どうしても白黒をきっちりつけなければいけない診断をする場合には、時刻にも気を遣う。
たとえば、診断をしたのが深夜だったら、必ず「翌朝にもう一度見直す」ようにする。「一人時間差」と呼んでいる(ぼくだけです)。こうすると、前の晩にはあんなに悪そうに見えたけど、朝になって冷静に見てみたら、もう少し臨床医と相談したほうがいいな……などと、時刻の違いによる誤診を防ぐことができる。
ほかの人、特に初期研修医や臨床医のような、病理を勉強し始めて間もない人がプレパラートを見て書いた診断を「チェック」するときも、その人が朝診断したものか、夜診断したものかをいちおう確認しておく。
夜診断したものの方が、より、「悪性より」に診断されていることが多い。そのことをこちらとしても把握しておく。
診断がどうしてもぶれてしまうと悩んでいる病理初学者に、「朝から晩まで診断してると、日内でも診断がぶれるんだよ」という話を教えるだけで、何か腑に落ちるのだろうか、診断制度がぐっと上がるということも経験した。
まったく人間の目、さらには脳というのは不思議だなあと思う。
さて、冒頭で、「病理医は9時5時で仕事が終わるからいいよな」の話をした。
ぼくは、実は、病院でプレパラートを見る時間は「昼3時まで」に限定している。夕方以降にはなるべく顕微鏡診断をしない。
夕方以降は、カンファレンスが多い。会議もある。研究会も夕方以降だ。それに、カンファレンスの資料を作ったり、画像・病理対比のプレゼンを作ったり、論文や原稿を書いたりといった、プレパラートを見ない仕事だってある。そういう仕事をなるべく夕方に回して、顕微鏡を見るのは極力「早朝から午前中」に集中させる。
どうしてもプレパラートを見なければいけないときも、良悪の判断が迫られる「生検」はできるだけ朝に回す。仮に、生検を夕方に見た場合には、前述したように、朝方、もう一度見直すようにしている。
周りが暗いときに顕微鏡を見ると悪く見えるとわかっているなら、明るいときにだけ診断をすればいい。
こうして、ぼくの出勤は基本的に「朝方」に変わった。病理医のワークスタイルはフレックスだ。自分の都合で、診断する時刻をいじることができる。
今後、「9時5時かよ! いいなお前の仕事、楽で!」と言われたら、「いや、3時には終わるわ。」と答えてやりたい。早くそういうリプライが来ないかなあと、楽しみに待っている。