2016年11月4日金曜日

諸葛亮いわく、ほかにすることはないのですか

ツイッターにて相互フォロー関係にある「ぷしこま先生」という方は、ときおり、手帳のようなものに、自分の負の感情を書き連ねているという。「ゲスノート」という名前だそうだ。

人の名前を書くと暗黒面に堕ちそうな名前だ。

負の感情とひとくちに言ってもさまざま、誰を罵倒するかもさまざまだろう。自分自身に向けた罵詈雑言なのか、近しい他者への苦言なのか、遠い他人への怨念なのか、それはわからない。

負の感情を世間に「公開」するやり方が、一般に広く普及している状態で(それこそツイッタランドである)、あえて「公開しない、日記」という形をとるというのは、古典的なようで、今もずっと新しいのではないか、と思う。


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感情に飲み込まれる、という言葉がある。

この場合、感情に飲み込まれる主体とは、何か。

感情、とは別に、個人、のようなものがあって、それが飲み込まれるのだろうか。

本体とか、本質とか、そういったものが、感情という外敵のような存在に洗い流されて、もともとあるべきだった姿を失ってしまう、といったイメージを呼び起こすフレーズだ。

果たして、そういうものなんだろうか。

自分の本質というのは、感情から見た場合に、どこに存在するのか。感情の外にあるのか。隣にあるのか。あるいは、中にあったり、そのものであったりも、するのか。

鏡を見ながら右の頬を触ろうとするとき、鏡に吸い込まれたような気分になって、うっかり左頬を触って、あれ、鏡の中だと右頬だなあ、とか、細かく誤読をしてしまうことも、あるだろうか。

「感情を記載する」という俯瞰視を行うことで、高みから自分をのぞきこむことで、かこさとしが言った「宇宙では、高いと遠いが同じ概念になってしまうんですよ」みたいに、高かったつもりが遠ざかってしまうことも、あるのだろうか。


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そんなことをずっと考えていて、うん、そうだな、「ゲスノート」こそは非公開であるべきだ、さすがぷしこま先生だなあ、と思っていたら、先日彼は、このような短いツイートをなさっていた。

「ときおり、ゲスノートと、ツイッターが、”裏返る” ことがある」

非公開という場で感情を記載する作業を、彼はときおり、あるいは無意識に? 狙って、部分的に「公開」することで、かえって「非公開の場」の効果を高めていらっしゃるのかも、しれない。

うーむ。

自己顕示欲がどうとか、承認欲求がどうとか、そういう言葉だけだと取りこぼしてしまう、自分と感情との、戦いのようなものがある。

この戦いは、外交のようにも、内政のようにも、見える。