人が履いている靴を見て、「おっ、かっこいい!」と思う。ある程度、好きな靴の、傾向も決まっている。つまり、靴の「好み」がある。
ところが、いざ買い物に出かけて、見つけて、かっこいいと思って買った靴が、数ヶ月後もしないうちに、
「なんか微妙だな……悪くはないけど……今着てる服と、別に合ってない気がするし……」
となることがある。
自分自身を見て「かっこいい」とか「ださい」と思う感覚の精度があまり高くないのだろう。他人を見て「かっこいい」とか「ださい」と思う感覚の方が、容赦ないし、一貫しているし、鋭敏である。
他人の描くイラストを見て、なんか目のバランスが変だなあ、と思ったり、逆に訳知り顔で「手塚治虫の絵はほんと、色気のある線だなあ」と言ってみたりすることもある。
シーズンでずっと4番を打っていた打者が、短期的に調子を崩したときに、体の軸が前につっこんでるんだよ、とか、悪い時はスイングがアッパー気味になる、などと、スルドク解説することができる。
人気のアイドルが歌う歌を聴いて、平板でおもしろみのない声だと言ってみたり、前頭洞に声が響いてないからボイトレの成果がいまいちなんだなと思ってみたりすることも、できる。
もちろん、自分で絵は描けないし、ホームランは打てないし、歌唱力もないのに、だ。
「そういうもんだよ」と片付けるのは簡単なのだけれど、ときおり、こう思うことがある。
「自分の持つ能力を越えている相手であっても、”評価”だけはすることができる、っていうのは、もしかすると、本能なのかな?」
草食動物は、肉食動物に、闘争力で勝つことはできない。しかし、相手の能力を見極めて「戦闘を避ける」ことで、生存の確率を上げることができる、とか。
インプットされた情報を脳内で様々に選別し、知恵としてストックしておけば十分で、社会性を武器として生存してきた人類においては、全てを自分が成し遂げる必要はなく、場合に応じて能力のある人間が対処すればいいのだ、とか。
なんか、そういう、「生存戦略上、知ったかぶりは重要だったんですよ。」みたいなこと、ないだろうか。
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ところで、「○○なんてのは、人間の本能だから」という論が、基本的に嫌いである。
なんでも本能ひとつで片付けるなよ、電車の痴漢を「本能」で片付けるのかよ、と、思ったりもする。
本能を理性と知性で抑え込んで、はじめて、人間だろう。
……だからこそ、自分の行動のうち、どこまでが「本能のなせるわざ」なのかを、知っておきたいなあという、気持ちがある。嫌いだと言っておきながら、しかし、気になっている。
まあ、知っておいたところで、それを活用できるかどうかは、また別なのだけれど。