たとえば「私立探偵濱マイク」を見て、映画館の屋上に住んでみたいと思ったり、「紅の豚」を見て、アドリア海の孤島に暮らしたいと思ったりした場合に、これを人に言うと、あー、中学生みたい、だとか、男のコだよねえ、とか、いろいろと解釈をされて、そういう解釈をぶつけてくる人はたいてい女性だったので、やっぱ女のコだなあ、だとか、いちいち論評家気取りかよ、などと言い返すなどし、互いに奥襟を奪い合うようなことも、あった。
それがぼくの若さだということには気づいていなかった。
若いということは、分析力が甘く、発言が軽く、決断が早く、見通しが甘いことだ、と、レッテルを貼っていたから、若いということが、「人を評価したがり、自分の評価に噛みつくこと」だなどとは、思ってもいなかった。
若さとは、必要以上に分析し、用もないのに重いことを言い、決断のタイミングが自分の都合であり、見通しが狭いことなのであって、決して若者の分析は甘くないし(ただし偏っている)、若者の言うことが軽いわけでもないし(ただし重すぎるきらいがある)、若者の決断は早くも遅くもあるし(ただしひどく身勝手だ)、若者の見通しは時に深い(ただし偏っている)。
たとえば、「大人はみんなわかっていない」という言葉は、「わかっていても言わない、わかっていてもあきらめるということを選択する人がいるのだ」、ということを、わかっていない人だけが発することができる。
そして、若者はみんなわかっていないからこそ、知らないからこそ、何かを切り開き……
と、必要以上に分析し、用もないのに重い話をはじめた、ぼくはおそらくまだ若い方に入るのだろうし、気持ちだけは若いのよね、と、分析されれば、もちろん、カチンと来て、なんだこのと言い返したりもするし、大人が、中年が、こんなに若いままで勤まるものだとは、正直、知らなかったなあと思うし、やはり中年を定義するには、白髪か下っ腹か息切れかオヤジギャグの切れ味をもってするしかないのではないかと思う。