そういえば、書道とかピアノとか、数独とかムシキングとか、カスピ海ヨーグルトとか珊瑚礁でのシュノーケリングとか、テイルズオブのシリーズとか信長の野望とか、合コンとかTOEICとか、私立高校とかヨーロッパ旅行とか、経験していないものが山ほどあるのに、
「自分はある程度普通の感覚を身につけた、一般的な人類である」
と誇れるのはなぜなんだろうな、と考えることがある。
世の中には、
「ぼくは人とは違う、特別な人間だ!」
と主張したくて仕方ない人もいるだろうけれど(それもいっぱいいるだろうけど)、ぼくはどちらかというと、できるだけ、一般的で、ごく普通の、感覚を持っていたいと思うし、ごく普通の感覚を持った上で、何かを得意でいられることのほうが、かっこいいと思っている。
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美容室に行って髪を切る。床屋でなくて美容室にするのは、以前になじみの床屋に「ゆるふわパーマ」をかけてもらおうと思ったらアイパーみたいなのをかけられて以来、床屋がトラウマになったからだ。まあそんなことは今となってはどうでもいい。もう38歳だし、なんならアイパーでもいいんじゃないかとは思うけど。
髪を切ってもらいながら、雑誌を読む。
さまざまな書籍を電子版に切り替えてきたぼくだけど、媒体としてスマホしか使っておらず、iPadのようなタブレットを使っていないからか、雑誌の類いは電子版だと読みづらい。紙の方がラクだ。
ぼくの顔や年齢から推測するのか、美容室の若いお兄さんは、勝手にいくつかの雑誌をセレクトする。北海道の観光・飲食を紹介する雑誌「HO」が2冊、あと、なぜかはわかんないけどぼくが手に取ったことのないファッション雑誌をたいてい1冊。ファッション雑誌までたどり着くことは、まずない。これでも読んで、もう少しおしゃれにしたほうがいいですよ、という暗黙のアドバイスなのかもしれないけど、残念ながら作戦に乗ったことがない。
「HO」。行ったことのない土地の、そば屋とか、地方食材をふんだんに使ったレストランとか、名物おかみの居酒屋、博物館の体験記などを、次々読んでいく。髪を切るお兄さんに向かって、ときおり、いいですねえ、行きたいなあ、など、言う。しかしまあもちろんのこと、ほとんどの店に行くことはない。脳だけが旅をする。
さて、「普通」は、どうなんだろうな、と考える。
飲食の雑誌、ファッションの雑誌、カルチャーの雑誌……。今の「普通」の人々は、どれくらいの頻度で読むんだろう。
音楽、メディア、マンガ、あるいは文学、さらにはマイナーな趣味系の雑誌まで、よくもまあ毎週これだけの雑誌が出るものだなと、本屋に行くたびに思っていたけれど、今の「普通」の人々は、どれくらいこれらに金をかけて、読んでいるのだろう。
近い将来、美容室とか、歯医者の待合とか、そういう場所でしか雑誌は読まれなくなったりしないのかな。もう、そうなっていたりしないかな。
ぼくは「普通」になりたくて雑誌を読んでいるんだろうか。「普通とちょっと違う、おトク」が欲しくて雑誌を読んでいるんだろうか。
そういうことを考える。
お兄さんに尋ねられる。
「最近忙しいんですか」
「いやあ、いっしょですね」
「そうですか。どこか飲みに行ったりしてますか」
「うーん、あんまり行けてないですね 行きたいんですけどね」
「そうですか。ぼくこないだあそこ行きましたよ、○○」
「お、それ、こないだ雑誌で見ましたよ。何の雑誌だったかな」(もちろん、ここ、美容室で、彼、お兄さんに出してもらった雑誌で読んでいるのである。)
「そうですか。ぼくも雑誌で読んだのかな、それで、行ってみようかと思ったんですよね」
「やっぱ読むと行きたくなりますよねー」
「そうですか。そうですねー」
「ぼくは行きたがるばっかりで、行かないんですけどねー」
「そうですか? そうですかー」
彼はぼくに出す雑誌をたまに自分でも読むのだろう。そして、ぼくと同じ記事を読み、ぼくと違って、体ごと旅に出た。
友だちが増えたような、友だちが去っていったような、気持ちになる。
たぶん、だけど、この記事を読んでいる人には、脳だけが旅をする人のほうが、ちょっとだけ多いような気がしている。しかし、それが「普通」なのかどうかは、わからない。