2016年11月16日水曜日

藤岡先生と、その弟子のこと

すこし前の話になる。

ある高名な病理医が亡くなった。

北海道大学医学部を首席で卒業、病理学の路に進み(今、path of pathologyだなあと思った)、ありとあらゆる人体学に精通し、ちょっと常人では理解しがたいほどの記憶力と、ただひたすらに洗練された言葉使い、おどろくほどおだやかな人柄で、誰にも好かれ、また畏怖されていた。

これらはみな、弔文にありがちな文句であるが、これ以外に書き用がない。

ぼくは彼に直接教えを請うたことはないのだが、ぼくの師匠の多くが、彼に教わっている。



エピソードとして有名……というか、これはもう都市伝説ではないか、と思われる類いのものが、いくつもある。その中でも最も「ああ、彼っぽい」と思ったのは、以下のような話だ。

あるとき、大学院生が、彼にこう尋ねた。

「藤岡先生、5,6年前なんですけども……□□病の解剖、ありましたよねえ……? 探しててなかなか見つからないんですが、あれ、どこの病院でしたかねえ」

すると、彼は、こう答えたのだという。

「ああ、19○○年△月に、○○病院で、私とあなたで入った解剖ですね。あのときのおばあちゃんは確か□□病で、○さん(技師さん)にあれとあれの写真をお願いしましたので、たぶん○さんに聞けばわかりますよ。」

大学院生は腰を抜かすほど驚いたという。

はじめてこのエピソードを聞いたとき、ぼくは、「うそくせぇ」とも、「うおっ、リアルでノイマンみたいな人がいるのか」とも思わず、ただ、「あー、藤岡先生なら、ありそうだな」と思った。

ある重篤な患者さんの解剖を行った際、体の外に一滴も血をこぼさずに解剖を終えたこともあったという。これがどれだけすごいか、解剖をやったことがない人にはまず伝わらないだろうが、一言、神業、というほかない。

彼が某大学の教授になることが決まり、それまでいた講座を去ったとき、「ああ、藤岡先生がいなくなるのなら、パソコンがもっといっぱいないとだめだ」となって、病理情報を取りまとめる専用のPCとデータベースが配備された、という、ウソみたいな本当の話もある。



ぼくは、二度ほど、彼に会った。同席した機会はもう少し多いが、まともに話をできたのは2回だけだ。

一度は講習会だった。見事な解剖技術を、淡々と、優しい言葉で、恐ろしく美しい写真を出しながら、語られていた。

一度は、ぼくの通っていた大学院の講座で会った。すこし前に聞いた講習会の内容がすごかった、ということを伝えながら、標本を1件見てもらった。「フラジャイル」に出てくる一柳教授にも少し似た、細身でやや小柄だが凛としたたたずまいの先生であった。

小声でしゃべっているのに、聞き取りづらいということがない。手足はおろか、声の先にまで気配りが行き届いているような人だった。ぼくは、彼の脳は、山のようだなと思った。それも、「モネラ族にとっての山」である。宇宙そのものではないか、と思った。




彼が亡くなったあと、ぼくの師匠の一人(現在は某大学の教授)が、ご遺族や関係者にあてた手紙を書いた。その中には、このように書かれていた。手紙が今手元にないので、うろ覚えだが、まあ、こんな感じだ。

「藤岡先生は、ありとあらゆる病理学の達人でありましたが、とくに解剖を大切にしておられました。特に、患者さんには最大限の敬意を払うべしと諭され、解剖の際に患者さんの皮膚にちょっとでも血液がついたらすぐ洗い流しなさい、と言われ、解剖が終わったあとには、患者さんに自らサラシや靴下を巻いて、どうもありがとう、勉強させて頂きました、と、お礼を述べられるのでした」



追悼文を見たぼくは、胸が締め付けられるような思いを一人で抱えきれなくなり、職場のボスに声をかけた。

ボスは、くだんの天才と、一緒に働いていた時期がある。

「ずいぶん叱られたよ」

へえ……。すこし、意外だ。おだやかそうに見えたけどな。

「しっかりした人でね」

「学問に対して、とても厳格だった」

「ぼくは、怒られてばかりだったなあ」

だんだん、ニュアンスが伝わってくる。

ボスは椅子に座って前を向いたまま、そっとひざを掴んでいた。

「総胆管は、そうかんたんには見つからないんだよ、って、ダジャレをよく言ったんだ。フフフッ」

ああ、そのダジャレは、さっきの教授も、追悼文に、書いていたなあ。




元・北海道大学助教授、元・杏林大学教授、藤岡保範先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

我々、北大第2病理の出身者は、みな、あなたの残された手技を元に、今でも切り出しを行い、解剖をし、病理医をやっております。切り出しのまな板は、ぶっちがいに立てかけておくんでしたよね。