2016年11月30日水曜日

病理の話(23) 多面化する内科うらがえる外科そして病理のこと

内視鏡というツールがある。すごいものだ。たかだか数十年の歴史しかない、鼻から入るほど細っこくてひょろながいチューブのくせに、胃や大腸、気管支、胆管などの中身を克明にぼくらの眼前に示してくれる。

内視鏡はすごい。マジックハンドのようなマニピュレータや放水装置などを搭載している。ちょっとしたキズを縛ったり、胃や大腸の中から小指の爪の先くらいの検体を採ってきたり、水をまいて視界を良好にしたり、特殊な色素を噴出して病変に色を付けたりすることができる。

最初、カメラで胃を覗き始めた人々の興奮は、いかばかりだったか。

手術で採って、切り開かないとおがめなかった病変を、生きた人間の腹の中にあるうちに、直接観察できる。たまんなかったろうな。

まあ患者も最初の頃は苦しくてたまんなかったろうけど。


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内科、外科、ということばがあるが、これらは考え方によっては「逆転している言葉」である。

内科は、体の外にしか触れないではないか。外科は、腹を切って、体の内部を触るではないか。内科が外から、外科が内からアプローチしてるじゃないか。逆だよなあ、ということである。

これは、単なる言葉のマジックで、よく考えると「内科は体の内から(薬などを用いて)治す、外科は体の外から(手をつっこんで)治す」のだから、何も間違ってはいないのだが……。

近年の消化器内科などというのは、実際、内視鏡を使って「外科的手技」をばんばんやってしまう。中から薬で、とか、外からメスで、などという分け方は、最初それしかできなかった時代に名付けられたものだ。人は、ツールを手にするごとに、名前を軽々と飛び越えて職務を果たそうとする。


さて、では、病理医はどう変わったか。


個人的に、病理医がいちばん変わったのは、「病の理(ことわり)に詳しいだけの人ではなくなった」ということかな、と思う。

病の理、すなわち病態生理に通じ、解剖学や細胞生物学を駆使して疾患を解き明かそうとした病理医の仕事は、どんどん細分化していった。

基礎研究方面では、

「○○という遺伝子変異を有する□□病で高発現している異常タンパクと結合したり離れたりしている可能性がある△△というタンパクをコードしている遺伝子をノックダウンした結果発現が向上したタンパクのメチル化について」

みたいな、もはや元はなんだったのか、そもそも患者と何の関係があるのかわからないような研究テーマを扱うこともある(まあめちゃくちゃ楽しいですけどね)。

臨床病理診断学の方面でも、

「食道胃接合部に胃酸逆流が生じることによって形成されるバレット粘膜のうちショート・セグメントのものに発生するがんのリスクと関連するかもしれない腸上皮化生の頻度と分布」

のような、すでに病からだいぶ離れた分野を丹念に読み解くことがひとつの価値だったりする(もちろん相当熱いんですけどね)。



ぼくは、自分のオタク性というかやっかいな部分を認識しているつもりだ。

臨床医に対するインフォームド・コンセント(臨床医に病理のことを納得し理解してもらうこと)が大事だと言い、臨床画像・病理対比などという仕事をして「コミュニケーションをとる病理医」の仮面を被ってはいるが、実際、「結局そこまで掘り進んだらもう何の役に立つんだか皆目わかんねぇよ」みたいな、純粋に細胞だけを追いかけていくような仕事にとてつもない魅力を感じるし、ノーベル賞受賞者に「何の役に立つんですか」とたずねた記者の尻の穴からホルマリンを注入してやりたい衝動に駆られる。

病理医の仕事もまた、内科医や外科医と同じように、多面的であり、複雑化している。

内科が外から、外科が内からの診療を行う時代だ。

病理医は、「病(やまい)の理(ことわり)」を修める医師であると同時に、「理(り)に病む」オタク学者であってもよいのではないか。

そんなことを考える日もある。