言葉狩りの世の中で発信を続けるには細心の注意が必要である。「そんなつもりはなかったとしても、悪く受け取る人がちょっとでもいるならば、発言した人が責任を負うべきである」という意見は声量が大きい。そして、事実、一理ある。無視することはできない。
「そんなつもりはなかったんですよ」と言っていじめを否定する人間がいる以上、「そんなつもりはなかったんですよ」で自分の不用意な発言が免責されるとも思わない。
だから表現を磨いていかないといけないだろうな、と思う。結論としてはいつもそこにたどり着く。
子どもの頃に折った木の枝。小学校への通学路で拾ったエロ本。高校のときに割った窓ガラス。隣の講座の講師に吐いた暴言。すべて自分の責任であるので一生背負って反省していかなければいけない。やった方はカラッと忘れられても、傷つき続ける人がいる。
それぞれの案件に一切関係のない第三者であっても、そのような事実があったと目から入力して脳に描いただけで、無限に傷つくことができる。人の心の優秀さゆえ。
だから表現を磨いていかないといけないだろうな、と思う。結論としてはいつもそこにたどり着く。
本を読みマンガを読み映画を観て、表現とは何かを受け取り続けて、自分がどう動いて何を語るかを微調整し続ける。①今ならやらないことを昔はやっていた。②今はできることが昔はできなかった。①と②は等価だと思うが、①は時効のない罪だと言われることがあり、②も未必の故意の罪だと言われる可能性がある。そして発信をいくら洗練させても、受信する側のありようをコントロールすることはできず、誤読も浅読も含めてどう受け取られるかはわからない。
だから表現を磨いていかないといけないだろうな、と思う。結論としてはいつもそこにたどり着く。
なぜ表現する側ばかりが努力を惜しんではいけないのか? ……いや、ほんとうは、「受像の仕方」についても鍛錬を積まなければいけないのだ。送る方も受け取る方も、境界面で反射するだけの拡散者も、みな、すべてがんばりつづけなければいけないのだ。たぶん。
今日の記事に、表現上の稚拙さをいくつか指摘できる。
「だから表現を磨いていかないといけないだろうな、と思う。結論としてはいつもそこにたどり着く。」という文章を三度くり返したことは、鼻につく。
発信が難しいと言いながら、実際、「受け取る側」のことを非難している、皮肉まじりの文章のように「も」読めてしまう。
今日の記事を読んで新たに傷つく人がいるだろう。そのことを背負う。そしてさらに表現を磨いていくしかない。受け取る側が「悪い」のではない。いつだって、言葉を残した側が「悪い」。……善悪を定めるならば、誰かが正義を語る限り。
以上は皮肉ではなくぼくが考える「正しさ」なのである。しかし、磨ききった表現力を持たないために、おそらくまた、どこかには届かず、どこかには届きすぎて、罪を背負う。