2021年9月22日水曜日

コアと花

窓際で水耕栽培しているサボテンの水が減っていた。指でサボテンをつまんで持ち上げ、もう一方の手でビンの中の水を捨て、軽く中をすすいでから水を足してサボテンを戻す。サボテンにとってこの水温は最初、少し低いかもしれない。きっと水風呂に入るときのように震えているだろうが、しばらくガマンしてもらうことにする。


去年は何度か花を付けたサボテン、今年はたしか7月ころに一度だけつぼみがついて花が咲いた。でもそれっきりであった。そもそも、「花が咲いたらきれいだから」という理由で買ったわけではなかったのだが、一度咲くのを見てしまうと、また次も咲かないかなあと期待するものである。花というのは植物の中でも格別に気を惹く。花が咲くものは咲いていないときに少し切ない気分になる。花の咲かない植物であればそんな期待はそもそもしないのだが。


先日、テレビで鬼滅の刃をやっていた。2時間ちょっとのテレビスペシャルの再放送である。夜の7時に堂々とやっている。首が飛んだり血しぶきが跳ねたりするアニメを7時過ぎに放送するなんてずいぶん豪胆だなあと思うが、アナと雪の女王のエンディングでアナウンサーにありのままのを歌わせたフジテレビなのでまあそういうことも平気なんだろうなと理解する。こうしてあらためて鬼滅の刃を映像で見ると、じつに説明の多いアニメなのだな、ということがよくわかる。「隙の糸」をあんなに細かく説明するなんて思いもよらなかった。

あまりこれまで意識してこなかったが、ぼくが近年好んで見ている創作物は、「あまり説明をしないもの」にだんだん近寄っていっている。ただし、いわゆるSF好きのように、「できれば全く説明しないでほしい」とまでは思わない。エヴァンゲリオンだって、説明はもう少ししてくれてもよかったとずっと思っていた(今では慣れてしまったが)。一方、鬼滅はよくしゃべる。炭治郎の声の人は映画の最中ほとんどずっと独白している。これ、時給安いな、と素直にかわいそうに思う。

このような作りが、空前絶後のヒットにつながったのだということにじわじわする。よく言われている、「説明過剰の時代」というやつだ。しかしこれはおそらく説明過剰というよりも、ひとつのコンテンツを長々見続ける文化が下火になっており、瞬間的にすれ違う楽しそうなものをそのときだけ楽しんでもらうにはどうしたらいいかと、クリエイターたちが意識的に、あるいは無意識に試行錯誤しつづけた結果であると信じたい。ひとたび「説明してくれるアニメ」に慣れてしまえば、説明が足りないアニメのことを楽しく見られなくなるだろうか? 花の咲かないサボテンのような気持ちになるだろうか? いや、まあ、ぜんぜんそこは関係ない、のだろうか? そこまでのものではない気もしてきた。


自分の昔のツイートがときおりRTされて回ってくることがある。「そんなことを言っていたのか」と、過去の自分と今の自分の「違い」に驚いたりもするのだが、よくよく掘り下げてみると、「昔はこういうところを説明したほうが届くと思っていたし、今はこういうところは説明せずにいたほうがいいと思っている」のかもしれないな、と感じる。時間が経てば人は変わる、それもそうだし、時間が経つと過去を都合良く改変する、それもそうだし、時間が経った後で自分を見ると「それでも一粒変わっていない部分があって、それがたぶん自分のコアだ」と気づくこともある。往々にして、自分らしさというのはコアの部分にはなく、表面で咲いた花の部分に出てくるものだと思うのだけれど。