2021年9月17日金曜日

エゴサ釣り

最近のインターネットでは「誰かの目に留まるような手法」というのが広く知れ渡っている。たとえば、


「相手のエゴサに引っかかるようなキーワードをわざとツイートの中に混ぜて、その人をdisる」


なんてのがある。


何かを発信するとき、それが世間にどのように受け止められているかな……と反応が気になるのは当たり前のことだ。どれどれ、「ヤンデル先生」で検索したら何か出てくるかな……。


すると、「ヤンデル先生」とだけ書かれてあとは罵詈雑言の嵐、みたいなツイートが引っかかってくる。びっくりする。「バカにするのに先生を付けている!」これがあまりに不自然なので、逆に、「ああこれは的確に相手を傷つけるための技術なのだなあ」と腑に落ちて、それ以降はあまり気にならなくなった。


ブロックやミュートをすればこのような人たちは目に入らなくなる。しかし、もっといいのは、「そもそもエゴサをしない」ということなのだけれど、ま、なかなかそうもいかんよね。


なお今は試しにぼくを例にあげて説明をしたが、実際にはぼくはあまりエゴサしても叩かれていない。これは、叩く人にリアクションを返さないからだと思っている。


叩く方だって反応がほしいのだ。


ぼくを執拗に叩き続けていた人をしばらく観察していると、ほかの人をも叩いているのだけれど、その叩かれた人が引用RTで反論をはじめたら、「来た! 釣れた!」とばかりに、引用RTの応酬が始まった。しばらくの間、ぼくへの攻撃はぜんぜんなくなり、「反応がある相手への攻撃」ばかりが続く。


ぼくは昔、そういうのを見て、「ブロックすら相手にとっては反応だと思われるんだなあ」ということに気づいて、ブロックすることもやめてしまった(スパムアカウントや、暴力的行為など犯罪的なツイートの報告・ブロックはときどきやる)。


ツイッターは承認欲求の場ではない、という趣旨のツイートが人気になっていた。「承認されたいからっていう理由なんかでツイッター使ってないよ」とその発言者は言う。頭の中で思い付いた雑多な内容をローデータとしてアウトプットして、自分の中から生(き)で出てくる言葉を世の中に露出するためだけにツイッターを使っているらしい。推敲前の文章を出力する場所としてのツイッター。まあそういうこともあるだろう。じゃあツイートをコラージュしたら一流の文章になるのかというと、どうも一般的にそううまくいくものでもないと思うのだが、まれに、ツイートの中から美しい文章を練り上げていくタイプの作家・哲学者などもいる。結局は使い手次第なのだなあ、と自分を省みる。他人のエゴサに引っかかるように悪口を言う人もいれば、作家がこれを読んで元気になってくれればいいなと作品の感想をつぶやく人もいる。やっている行動は9割方同じだ、ただ、最初の心根の部分だけが微妙に違う。あるいは、双方の心を持ったまま、どちらかを押さえつけ、どちらかを撫でて愛でてやっているタイプの人間もいるだろう。というか、人間とはたいていそういう多重なものなのだろう。