今から50年くらい前の話。
旧・築地市場の目の前に建っている、国立がんセンター中央病院病理部(当時の名称)では、「早期胃癌」の発生メカニズムを解明するために、猛烈な熱意で研究が行われていた。
胃癌の患者から、手術で胃がとられてくる。
胃には、見てわかる大きながんがある。そのがんを、こまかくスライスし、プレパラートを作成して、顕微鏡で詳しく検索する。
これは今も変わらず行われている「病理診断」だ。しかし、当時はこの検索に加えて、さらに追加で手間がかけられていた。
「がんのない粘膜」もすべて、プレパラートにされ、検索の対象となったのである。
たとえ話をする。
火災が起こったときに、燃え落ちた家やそのまわりに建っている「火の粉が及んだ家」に入って現場検証をするのは大事なことだ。火の出た原因を明らかにすれば、今後の防災にも役に立つだろう。
しかし、「火災が起こった町内のすべての家を家宅捜索」することに、意味はあるだろうか? それはさすがにちょっと、やりすぎではないだろうか?
「がん」のない粘膜を調べるというのは、この、「燃えた家以外もぜんぶ家宅捜索する」ということに似ている。異常な手間がかかる。胃ひとつを全部プレパラートにすると、その枚数は(胃のサイズにもよるが)200枚にも300枚にもなってしまう。切るのも大変だし、顕微鏡で見るのだって膨大な時間がかかる。
しかし、結果的にこの、「燃えた家以外もぜんぶ見る」ことが、その後の胃癌診療の発展に大きく寄与した。
これによって、「まだ進行していない、早期の胃癌」というのがときおり見出された。「ボヤ」が見つかったということだ。さらには、「胃癌の発生している胃に、ずっと進行していた病的な変化」もいろいろとわかってきた。「火の不始末がありそうな町内」であるということを確認できたのである。
胃の研究はすすみ、今では、切除された胃を毎回すべて切らずとも、胃カメラの段階で、あるいは病理医が胃を目で見るだけで、どこにどのような異常が生じているかをほとんど見分けられるようになった。「全割」と呼ばれる、採ってきた標本すべてを切りまくってプレパラートにするやり方は必要なくなった。
それでも、この「とことん調べる」という手法は、今もまだ有効である。とくに、まだメカニズムの解明されていない新しい病気や、まれな病気を検討する際には、採ってきた臓器を細かく切って多くのプレパラートを作り、網羅的に解析することが行われる。
「まだメカニズムの解明されていない新しい病気? そんなの、現代にまだ残っているの?」
と疑問に思う人もいるだろうか? いや、たぶん、いないだろう。新型コロナウイルス感染症だって「新しい病気」だ。この世の中に、まだまだわからない病気がたくさんあるってことは、医者でなくても、みんながなんとなく知っている。いつもいつも細かい検索をすればいいというものでもないのだが、いつでも細かい検索をできるように心の準備をしておく、そういう姿勢も病理医には求められていると思う。