集合写真を撮った。病理診断科のスタッフ、病理医3名、技師5名、助手1名の合計9名がスマホのカメラに写る。となりの検査室からスタッフを1名借りてきてシャッターを押してもらった。
撮られた写真を見てみると、辺縁の部分が魚眼レンズ的に少し湾曲していた。スマホの設定を風景用などに変えておくべきだったかもしれない。まあ、用途はしょせん「大学の基礎講座に送って教室だよりに載せてもらう」だけなので、これでもよかろう。
写真に写った自分を見る。椅子に座って太ももの上に拳を置いている。太ももが少しむちむちしている。写真の写り方の問題、というよりは、パンツの素材のせいかもしれない。GUで買った3000円しないパンツだ。
写真なんてめったに撮らないのでこういうときにあっしまったなと思う。
写真のためにみんな一瞬マスクを取った。しかしシャッターを押される寸前に、今のこの時期を記録に残すためにマスクをしたままでもよかったかもしれない、と少しだけ思った。そして次の瞬間には、「こんなもの記録に残してやるもんか」という意地のようなものがムクムクと湧き上がってきた。そして、よく考えるとおそらく今後病院では一生マスクを外すことはないので、この時期もなにも、今に限った話じゃないんだろうな、と思い直した。
新型感染症対策のために手洗い・マスクを遵守し、患者の面会を謝絶した結果、院内で発生する肺炎の数が減って驚いたのは、もう1年くらい前のことだ。結局は、今まで、持ち込んでいたのだろう、さまざまな感染症を、人が。そういうことがわかってしまった今、病院に勤める人間がマスクを外すことは、一部の必要な例外を除いてありえない。マスク以前とマスク以後は完全に分かたれた。
とは言え、ケアの現場では医療者の表情を伝えることが実益に結びつくこともまたよく理解できる。決めてかかることはないのだろう。50年もすればマスクも手洗いもありがたみが薄れてくる……のかもしれない。どうだろうな。防災意識くらいには残るのだろうか。
シャッター音が響いて、みんながそれぞれの仕事に戻り、ぼくはしばらく考えていた。「今を残すこと」とはなんなのだろう。変わっていく未来に、変わらぬ止め絵を贈る行為とはいったいどういうことなのだろう。たとえば10年後にぼくが今より痩せていたとして、この写真を見て、太ももを見て、マスクを付けていない顔を見て、そのとき何を感じるのだろう。写真ひとつにぶつぶつとものを感じるのも今だけの価値観なのかもしれない。あらゆる細胞が入れ替わり、おそらく考え方も変わっている10年後のぼくは、果たしてぼくと言えるのだろうか? 言うしかないにしろ。