そして、「あきらかに切羽詰まった顔」でやってくるドクターもいる。月に何度か経験する。
「先生、○○菌は見つかりましたか?」
○○に該当する菌はそう多くないが、ここでは書かない。大事なのは、これが何菌の話かではなく、「あとで病理診断報告書に書かれた『ある・なし』を見ればわかる程度の質問を、あえて病理医を直接訪れて聞き出したくなるくらい、臨床医がハラハラドキドキしている状態」のほうだからだ。
まず、この医者は、患者の不調の原因となっている「病原菌」が見つけられていない。あらゆる検査を駆使しているのに、だ。あらゆるというのはたとえば血液検査だったり、培養検査だったり、PCR検査だったりする。質量分析などのマニアックな方法もある。菌を見つける検査はいっぱいあるはずなのに、何をやっても菌が見つからないというならば、つい「菌が原因ではないからだろう?」と考えたくなるところだ。
しかし、ここが現場の医療の難しいところでもある。「何をやってもなかなか引っかからないが、じつはどこかに菌が隠れている」というパターンの病気は実際にある。このとき、菌が見つからない理由はいろいろである。
1.血液に菌が影響をおよぼしづらい
2.PCR用の検体を採取できる場所にその菌があまりいない(他の場所にいる)
3.体のどこかから検体を培地になすりつけて、菌を培養しようとはしているのだが、じつはこの菌は培地に生えて目に見えるようになるまでに何週間もかかる(発育が遅いのでそれを待っていられない)
4.レアな菌すぎて普通の病院だと検査法がない
5.そもそも菌が原因の病気ではない
「そもそも菌はいない」というパターンは最後に書いた。何かの菌にやられたときに似た症状を引き起こす、「菌が原因じゃない病気」というのもある。しかし、「菌がいるけれど見つかりづらいだけ」という、クライムミステリーみたいな状況もありうるのだ。これだから医療は難しい。
このようにさまざまな理由で「菌が見つからない」とき、医者はどうするか。究極的な答えがひとつある。それは、「菌探しをやりつつ、それはそれとして、今ある病気の状態に対処する」ことである。
もちろん、患者に悪さをしている「原因」がわかればそれだけ効果的な治療ができる。しかし、原因そのものが見つかりきらなくても、今起こっている症状に対して治療をぶつけていくことはできる場合がある。これは「原因探しをあきらめる」という意味ではない。原因は探し続けるが、その間、患者に何もしないでただ延々と苦しませているのはよくない。そして、「治療を入れることで結果的に原因までわかってしまうケース」も考慮する。俗に「診断的治療」という言い方もする。治療することが診断にもつながる、という逆説めいた言葉である。
「○○菌はまだ見つかっていませんが、○○菌の感染とみなしてこの薬を使います。もしこの薬がよく効いたら、検査では見つかりづらいタイプの○○菌感染であったとあとからわかるでしょう。」
推論としてはスジが通っている。ただし、「みなして」の部分では患者はもちろん、医者も緊張する。
こういうとき、主治医は慎重になり、よく歩く。細菌検査室の技師に「検査の雰囲気」を聞きに行き、外注検査会社に新しい検査が出ていないかをたずね、そして、病理医にも話を聞きに来る。
どこか1箇所、だれかひとりでも、「菌の正体」に肉薄している人はいないかと、チームのすみずみに目をくばって考えるのだ。そこまでしてなお、「現在の医療では誰がどう調べても○○菌が見つからないが、しかし、○○菌が引き起こした病気かもしれない」というケースだと考えたときに、主治医は患者とよく相談してから治療を開始する。
さて、このような相談を受けた病理医はどのように答えるべきか。
「○○菌ですか?
→ いました。
いませんでした。」
のように、いた・いないの2択で返事してよいものか?
よい。それが仕事である。しかし、それだけでは終わらないのが医療というものでもある。
「菌は見つかりませんでしたけれど、今、どのようにお考えなんですか?」と主治医の相談に乗る。これはおそらく、病理医としてやったほうがいい仕事なのだ。同じ国家資格を持ちながら、違う部門で働くふたりの医師が、それぞれの視座から考えていることをぶつけ合う。あるいは、もっと単純に、「困っている臨床医の話を聞くことで、臨床医の頭の中を整理するのに付き合う」くらいでもいい。
「病理医はいる・いないしか答えられないんだからあまり頼られても困るヨ」みたいなことを言う病理医は、医者としての給料をもらうべきではない。もっと親身になるべきだ、仮にも医者なのだから……くらいのことをぼくはときどき考える。でもこれは言葉が強すぎるので、なるべく言わないし、書かないようにしている(書いちゃった)。