思考がうねるとき、心が思考に翻弄されて浮ついてしまうことがある。思考は波であり、心は小舟に乗ってその上にたゆたっている。心がゆらゆらと揺れるとき、思考の水面も波立っている。思考の方向が定まって、決まった向きで流れ出すと、心を乗せた小舟もそれに連れて移動していく。黒潮のような思考の上で、親潮とぶつかるまで快適な旅が続く。
心はときに思考に向かって小石を投げる。波紋が立ってそのひとつが舟の側面にも打ち付ける。反射して干渉し、波は次第に消える。波が十分に消えたらまたひとつ小石を投げる。
思考が凪いでいるとき、心は落ち着いて周りを見渡し、舟に寝転がって空を見たり、海中に釣り糸を垂らしてみたりする。
思考は時に荒れ狂う。思考を乱しているのは思考自身ではなく、強く吹き付ける雨風の方だ。しかし、いつの間にか、波が次の波を連れてきて、ぶつかり合って、舟の上に降りそそいでいるのが雨粒なのか、砕けた波しぶきなのかわからなくなることもある。
このような思考と心の隠喩はどこまでも続けることができる。しかし、冷静に自分の脳を探ると、思考と心を分けることがそもそも可能なのかどうかがよくわからない。この場合の心というのは感情や情念のような「ままならず、あるもの」を指すのだろう、自分で書いておいて「指すのだろう」も何もないのだが、実際、そこにただそのようにあるものを、勝手に理屈で思考だの情念だの心だのと分類することがどれだけ正しいことなのかもわからないのだ。カラスをハシブトガラスとハシボソガラスにわざわざ分けることに何の意味があるか、鳥類学者以外にはわかるものではない。はるか上空から見下ろせば波も小舟もいっしょなのだ、ただそこには白く跳ね返る何かが見えるだけなのである。水平線は遠くて丸い。