とある教授から連絡があり、おりいって相談があるとのことで、いつものクッタクタなパンツではまずかろうと思いスーツで出勤したのだが、職場に着くとメールが届いていて、
「すみません上からの指令があり、急遽仕事しなければいけなくなったので、今日の会合はなしにさせてください」
とのことだった。ドタキャンであるが別にかまわない。ぼくが大学に行くこと自体は大した手間でもないし(むしろ気分転換になってありがたいくらい)、向こうが忙しいのはわかっていたことだからまた向こうが次の予定を提示するのを待つ。
それよりも、教授なのにさらに上があんのかよ、という感想のほうが大きい。でもまあたしかに「教授の上」は存在する。ぼくもよく耳にする。ただし実感しているわけではない。なぜならぼくは教授ではないからだ。そのあたりのニュアンスは感じ取りづらい。やっぱり当事者じゃないとちゃんとはわからないと思う。
同年代、あるいはぼくより若い医者が、ぽつぽつと教授になりはじめた。大学教授というのは基本的に50代、そして60代がメインの仕事であるが、まれに、異常に業績がすごい人とかが30代、40代で教授になる。そういう人たちはすぐ、「教授と言ってもみんな同列じゃないんですよ、私はまだまだ新米、かけ出しですから……」と謙遜をする。つまりは教授になってゴールではない。まだまだ上がある、ということなのであるが、この「上」をあまりに多くの人が口にするので、まあ本当にあるんだろうな、と実在を信じている。
なお、いま63歳くらいの教授であっても「上からのお達し」という言葉を使うので、教授の言う「上」というのは単に年齢の話だけを意味しない。教授を退官してからも学会などで影響力を持つ、院政を敷いている元教授みたいなのもいるのは事実だ。ただしニュアンスはそれだけではない。
教授たちが「上」という言葉を使うときには、ぼくがうがちすぎなのかもしれないが、
「教授だからさすがに自由にいろいろ仕切れるかと思っていたけれどそうでもない」
という心の声がにじんでいるのではないかと思う。
トップダウンで強権ごり押しが許された時代でもない。部下や隣の講座や学会の関係者一同などに気を遣い続ける「調整役」としての自分にあらためて気づく教授も多いようだ。大学教授というものが医師のキャリアの一端の頂点であることは間違いないにしろ(一端、と書いておいたのだからあまり考えなしにここで沸騰してつっかかってこないように)、やっている業務の性質は中間管理職である。連絡、調整、均衡、分配。整地、配置のくり返し、最後は税率0%でメガロポリス! ……最後のは『シムシティー』の攻略本のフレーズなので気にしないでほしい。でも、なんだか、教授と市長の仕事って似ているのかもしれないなとふと思う。市長になりました、それで位人臣極めました、なんて言わないだろう。教授もたぶんそういう仕事なのだろう。他人事だけれども。
最近仕事でご一緒する教授たちはみんなすごくまじめな人ばかりだ。基本的に敬語しか使わない。准教授以下のひとたちのほうが無闇にタメ口を使う印象がある。ここは偶然ではなくたぶんそういう戦略があるのだと思う。「教授だからって偉ぶりやがって……」と思われるリスクを回避する上で敬語というのは最低限のリスクヘッジだ。教授はみんなメールの返信が早い。教授は笑顔を絶やさない、まじめな案件で話し込んでいるときもしばしばふと笑顔になって「この議案は難しいですが、あなたに敵意も不満もないしこうしてご一緒できていることがうれしいです」というメッセージを伝えてくる。そしてみんな仕事ができる。それは当たり前だろ、と思うかもしれないが想像を超えるほど仕事ができる。資料の取り寄せとか文献の要約とか、部署への周知徹底とか予算の管理といった、普通の医者が「それは事務の仕事だろ」とか言ってないがしろにしがちな部分であっても教授はしっかりとこなす。「雑用に強い」のである。その上でなお、思考が深い。学術的な部分でも、あるいは(医者の場合は)臨床的な部分でもだ。
そういう教授が、日常会話の中で使う「上」という言葉にはおそらくまだまだ含みがある。こういうのはたぶんぼくのように下とか中にいるまま働き続ける人間にはわかりきらないところでもあるだろうし、教授ほどではないけれど中間管理を必要とする身としてはきちんと覚えておかなければいけないなと思う部分でもある。敬語と笑顔に関してはほんとうに勉強になる。この二つを欠いたままで「仕事ができるから許される」なんて人は、おそらくこの先はだんだん減っていくのだろう。居丈高で不機嫌なまま、処理能力だけ高い人というのは本当は存在しないのかもしれない。世間との均衡を保つ情報処理能力が低いから、人は虚勢を張ったり不機嫌さを隠さなかったりするのかもしれない、と、さまざまな教授陣を見ていてふと思う。はー優秀な人が性格いいとしんどいなー。